タイ外交史
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このページではタイの外交の歴史について述べる。
注:便宜上、特に断りのない限りシャムを使わずタイを使っています。
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[編集] ヨーロッパとの外交関係
イギリスとの外交関係は1855年に締結されたラーマ4世(モンクット)がボーリング条約(英泰友好通商条約)を結んだことに始まったとも言われる。実際はそれ以前、アユタヤ王朝時代からイギリス人が渡来してタイ国内で商業を営んでいたが、この条約は列強諸国と初めて結んだ条約として、タイの近代的な外交の幕開けとも言われる。フランスとの外交関係はアユタヤ王朝ナーラーイ王の時代に、チャオプラヤー・コーサーパーンが外交使節としてフランスに足を運んだのが始まりであるが、この外交はナーラーイの崩御と共に途絶えたため、実質的にはボーリング条約以降に締結された、条約などによって外交が始まった。この二つの国はタイへの侵攻を画策し、日本と並び長年タイの政治家を悩ませた国であった。
タイは1865年8月15日、修好通商航海条約をフランスと締結、これは一種の不平等条約であった。その後1867年7月15日にルアンパバーンでルアンパバーン協定が締結された。これにはタイの属国であったルアンパバーン領のフランス人への土地所有を許可した協定であり、タイからルアンパバーン王国の宗主権を取り上げてしまうものであった。なおこの協定では地図作製技術の限界からルアンパバーン領とベトナム領の国境線の取り決めを行わなかった。
1893年タイ人のカムムアン県の知事がフランス人将校と紛争を始めた。この後、フランスでは議会がタイへの武力行使を容認、同年7月13日にパークナム事件(シャム危機)を勃発させた、これは最終的にフランスによってチャンタブリー県、トラート県が占領されるという事態に発展した。10月3日タイ政府は決心しメコン川以東およびその中州、カンボジアのバッタンバン州とシアムリアップ州を割譲、メコン川から25キロ以内の武装解除、フランス製品への課税禁止、フランス人とその植民地の住民(#保護民)の裁判管轄権の放棄の要求を飲み込んだ(ちなみに他の国とも結んでいた)。
後述するが、バンコク、フランス領事はこの時、保護民の地位を自分の国とは関係ないタイの有力者にワイロと引き替えに与え、保護民をいたずらに増やし始めた。これによりタイの治安は悪化し、タイ政府を大いに悩ませた。1904年2月13日タイ政府は新たに条約を結び、ルアンパバーン領の放棄、及びメコン以東の領土の一部(現在のラオス、サイニャブリー県、チャンパーサック県)を割譲することで、保護民の数を減らすこと、チャンタブリー県からのフランス軍の撤退を認めさせた。この時フランス軍はチャンタブリーから撤去したものの隣のトラート県に場所を移して駐留し続けた。
一方、イギリスはタイと1883年に結んだ条約でタイとビルマの国境をサルウィン川に定めていたが、サルウィン川以東のタイ領でチーク材が豊富にあることが分かると、1892年にタイに新たな条約の締結を迫り、サルウィン川以東にも進出した。このほかマレー半島ではクダ州、プルリス州、トレンガヌ州、クランタン州をその領域に入れ、マレー半島には他の国の軍隊を立ち入らせないことをタイ政府に合意させた。そのため南タイも事実上イギリスの勢力下に入った。
イギリス・フランス両国はタイを緩衝国とすることで1896年1月15日に同意、1904年4月8日には両国の勢力境界線をチャオプラヤー川で分ける形で、両国のタイへの進出は終わった。
第一次世界大戦中、タイは不平等条約の改正を目的に、大戦に参加することを表明した。食料供給を強みとするタイの参戦は連合国側にはありがたい申し出であった。この時フランスは賛成を表明したが、タイが関税自主権の回復を代償に求めたため難渋を示している。結局タイは今まで不平等条約を結ばせながらも大きな害を及ぼさなかったばかりか、タイ国内の鉄道施設援助にまで協力的だったドイツに対して1917年9月28日宣戦布告した。この時までに、タイ政府は国内の企業にドイツ・オーストリア国籍の住民すべてを解雇することを通達。イギリスとフランスへの反発によるタイ国民の親ドイツ感情は消え失せ、一転して反ドイツ・ムードに包まれた。
タイ国からは1918年7月30日にマルセイユに上陸、フランス軍による訓練を施され一部が陸上輸送部隊として10月17日から終戦までの24日間任務に就いた。結果戦勝国となったタイはパリでの凱旋パレードに参加した。ドイツ・オーストリアとの不平等条約は即座に撤廃することが出来た。平和会議にも一国の代表として参加し、国際連盟の設立メンバーとして参加する権利を得た。
一方で、元々タイとの条約改正に批判的だったイギリスはもとよりフランスとの不平等条約は、改正を平和会議で訴えたにも関わらず改正されることがなかった。この訴えに応じたのはアメリカだけであった。しかし、これを契機に憲法及び法典(民法、商法、刑法)の整備を行うことで不平等条約を撤廃するという条約をヨーロッパ諸国と結ぶことが出来た。この後タイは立憲革命を経て、曲がりなりにも民主政権を通して憲法及び法典を整備した。これらの法典は1910年10月に施行され、翌年11月までに法典を整備したことを関係諸国に通達。翌年末にはすべての不平等条約を完全撤廃した。
後のピブーンソンクラーム政権時代(1938年12月16日 - 1944年8月1日)中の第二次世界大戦中、フランスがナチス・ドイツに圧迫され始めると、1940年フランスに対して進出を始めた(対仏国境紛争)。後に日本とタイの間で軍事協定が締結されると日本もこれに加勢し、失地をほぼすべて回復した。ところが戦争が終結するとタイが敗戦国として処理されたため再びその領土を失うことになる。
一方でイギリス・フランスはアジアから撤退していたことにより、タイはもはやヨーロッパを重要な外交相手と見なさなくなった。一方でアメリカの台頭や東南アジアの共産化が始まり、この後急速にタイはアメリカを外交の最重要相手と見なすことになる。
[編集] 日本との外交関係
1887年、外相のテーワウォン親王(ラーマ4世・モンクットの子息)が東京を訪問、同年9月26日『修好通商ニ関スル日本国暹羅国間ノ宣言』が調印したことによって日本とタイの外交が本格的に始まった。この後アジア関連の専門家稲垣満次郎が政府に使いを頼まれてタイに渡り、1894年4月13日にテーワウォン親王と会見し通商条約の締結を打診した。この時稲垣は単刀直入に「日本はタイと不平等条約の締結を結ぼうとしていますが如何ですか」との旨の質問を行った。テーワウォン親王はこれに対して、「欧米とも同様な条約を結んでいるので、日本だけに条約の締結が出来ませんとは言えません」との旨の回答を行っている。これはつまり、当時タイがイギリスとフランスに挟まれ、軍事的な危機に陥っていたため、日本を介入させてこれを緩和しようとするねらいがあったためである。
1896年、日本の時の首相大隈重信は外交拡張政策の一環にタイに公使館を設置すると、稲垣を公使に就けた。1898年2月25日、日本はこの稲垣を通じて『日本暹羅修好通商条約航海条約』を締結した。この条約では日本を最恵国待遇とする事、日本のタイ国での治外法権などを定めた一方で、法典編纂完了の後は平等条約に切り替えるという欧米の結んだ不平等条約よりもより画期的な条項を含んでいた。一方で、タイ人でなくともアジア人に対してはタイ人と同様に見なすことを認めていたタイの伝統的な対アジア人政策を翻すことになり、タイに住む日本人の土地所有が否定されるという弊害も生んだ。
日本は条約締結と同時にタイの法典編纂に協力することを約束。法律家政尾藤吉が日本から派遣された。このころ日本はイギリス・フランス両国の影響を払拭しようと「タイ近代化を促す」というのを半ば公式見解として、日本人の技術者が数多く派遣された。ラーチニー女学校やカセートサート大学の元になった養蚕研究所などはいずれもこのころの日本人の功績である。
1921年日本は再び修好通商条約を結ぼうとした。今度の条約では日本人の土地所有を認めさせたり、タイの裁判所に日本人弁護士を設置しようとするものであった。しかし、タイは第一次世界大戦に参加して戦勝国となり国体的地位をある程度認められていた上に、国際的に不平等条約撤廃という動きのある中で、日本のより進んだ不平等条約は受け入れられないものであった。このため日本は1924年3月10日にアメリカが1920年に調印したものと同内容の修好通商条約を締結した。これは後にタイが立憲革命を経て法典整備を完了すると、欧米諸国とともに不平等条約を撤廃するに至る。
戦前の日泰関係が友好的であったことの一エピソードとして、リットン調査団報告書の承認に関する国際連盟総会における決議でタイが棄権票を投じたことが取りざたされるが、実際には日本にのみ好意を示すことはタイ政府の意図ではなかった。これは、当時イギリス・フランスの二大勢力に挟まれていたタイとしては、両国に合わせて(日本による満州国設置を否定した上で満州新自治政府の設置をする)賛成票を入れるとアジアの大国、日本の恨みを買う可能性があり、一方で反対票に投じるとイギリス・フランスの恨みを買う可能性があるためであり、文字通りの棄権であった。松岡洋右代表が「タイは日本のために賛成票を投じなかった。欧米はこのことを教訓にすべきだ。友好国タイを攻撃するものがあれば日本は全力でタイを守る」との旨のコメントが新聞に発表され、日本から感謝の電報が送られてくると当時の首相であったマノーパコーン首相やシーウィサーン外相はあわてふためいたとさえ言われる。
対仏国境紛争では日本は調停役を買ったが、大東亜主義を掲げる日本にとってフランスのアジア進出は邪魔であったために、タイの代表とフランスの代表を東京に呼び寄せ、嫌がるフランスに構わず無理矢理にフランスにメコン川西岸のタイへの返還を定めた『東京協定』を1940年5月9日に両国に結ばせた。第二次世界大戦中の日本はタイ領の通過を求めて1941年12月8日南タイを侵攻、同11日には『日本国軍隊のタイ国領域通過に関する協定』をタイ=日本間で締結した。これはタイに戦争協力を求める一方で、タイがイギリス・フランスに割譲した領土の回復に協力するとの旨が書かれていた。このためタイ政府は一時日本に協力的姿勢を見せていた。
しかし実際にはタイは日本が軍から大量のバーツを借り入れそれを消費したことによりインフレが生じ、巷では兵卒の無頼漢ぶりに対して頭を痛めることになった。そのころアメリカのセーニー・プラーモートを中心に自由タイと呼ばれる反日組織が組織された。これはタイ国内、アメリカなどにも広まり、連合国側との連絡をつとめた。当時の首相であったピブーンソンクラームもすでに日本に対する関心をなくし、自由タイを半ば公認し、自由タイのメンバーであったディレークを外相に指名するなど英米よりの外交政策に切り替え始めた。大東亜会議には日本から要求されたものの、仮病を用いて欠席。代理に、ワンワイタヤーコーン親王を(ラーマ4世(モンクット)の孫)送り込むに留まった。
一方で、この戦争中の日本との濃厚な外交関係はインフレなどの大きな問題を生んだが、一方で日本はスズ、チーク材と言う米と並んで重要な輸出品目をイギリス商人の独占から解放し、中央銀行を設置してイングランド銀行からタイ経済を分離させたという側面も持っていた。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- ピブーン - 独立タイ国の立憲革命 ISBN 4000048643
- タイ入門 ISBN 817511540
- タイ-独裁的温情主義の政治 ISBN 4326911018