ドクター・ドレー
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ドクター・ドレー(Dr. Dre 本名:アンドレ・ロメル・ヤング(Andre Romel Young)1965年2月18日-)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州コンプトン出身のアフリカン・アメリカンの音楽プロデューサー、MC、レコード会社経営者。ヒップホップ・ミュージックの分野で、最も財を成し、最も影響力があり、最も成功し、最も有名なプロデューサーの一人である。
ドレーは、象徴的なギャングスタ・ラップ・グループ、N.W.A.のメンバーとして有名になった。その成功を、ソロのMC、また、シュグ・ナイトとともにデス・ロウ・レコードの共同創設者として、またアフターマス・エンターテインメントの創設者として継続させている。彼は、スヌープ・ドッグ、エミネムをデビューさせたことや、ヒップホップ・ミュージックの優れたプロデューサーの一人として有名である。彼が経営するアフターマスに所属するアーティストには、エミネム、50セントなどがいる。また最近、バスタ・ライムズ、イヴ、ザ・ゲームなどが加入した(2006年にザ・ゲームは脱退)。
ドクター・ドレーのアルバム、「クロニック」と「2001」は批評的にもセールス的にも成功した。特に前者はその後4年間(1992-1996)、ヒップホップ・ミュージックの主流となり、今日まで影響を与え続けているウェスト・コーストのGファンクの始まりとして、ヒップホップに革命をもたらしたと評価されている。
[編集] 来歴
ドクター・ドレーは、1980年代前半に、ワールド・クラス・レッキン・クルー(World Class Wreckin' Cru)の一員としてプロデューサーとしてのキャリアを開始した。1986年に、ドレーとワールド・クラス・レッキン・クルーのメンバーであるDJ・イェラ(DJ Yella)は、1990年代にギャングスタ・ラップと呼ばれるスタイルを確立したラップ・グループ、N.W.A.に初期メンバーとして参加した。
N.W.A.の大成功の後、N.W.A.とそのレーベルであるルースレス・レコード(Ruthless Records)の創設メンバーであるイージー・E(Eazy E)との不和により、人気の頂点にあった1991年に同グループを脱退し、シュグ・ナイトと共にデス・ロウ・レコード(Death Row Records)を設立した。
1992年春に初のソロ・シングル「ディープ・カバー(Deep Cover (AKA 187))」を発表した。このシングルは、MCのスヌープ・ドギー・ドッグ(現スヌープ・ドッグ)との共演の始まりとなった。スヌープは、同年発表のドレーのソロデビューアルバム、「クロニック」でも大々的にフィーチャーされた。同アルバムは「ナッシン・バット・ア・G・サング(Nuthing But A 'G' Thang)」、「ファック・ウィズ・ドレー・デイ(アンド・エヴリバディズ・セレブレイティン)(**** Wit Dre Day (And Everybody's Celebratin'))」、「レット・ミー・ライド(Let Me Ride)」などのヒット・シングルを生み出し、マルチ・プラチナ・アルバムとなり、歴史上最も売れたヒップホップアルバムの一つとなった。「レット・ミー・ライド」は、1993年のグラミー賞ベスト・ラップ・ソロ・パフォーマンスを獲得した。
続く1993年、ドレーはスヌープ・ドッグのデビューアルバム「ドギー・スタイル(Doggystyle)」をプロデュースした。同アルバムは、初のビルボード・チャート1位デビューという驚異的なヒットを記録した。
1996年には、2パックの「カルフォルニア・ラヴ(California Love)」をプロデュースし、自らも客演することで大ヒットさせた。この大ヒットにより、デス・ロウ、そしてドレー自身の音楽業界での立場が確固たるものとなった。しかし、同年の終わり、2パックが死亡し、シュグ・ナイトが脅迫罪に問われて逮捕されたことにより、デス・ロウの存在が危うくなった。これを受けてドレーは同レーベルを脱退、自らの手でアフターマス・エンタテインメント(Aftermath Entertainment)を立ち上げた。それと同時に発表されたアルバム「ドクター・ドレー・プレゼンツ〜ジ・アフターマス」は、アフターマスと契約した新人の曲を含むコンピレーションで、ドレー自身のヒット・シングル「ビーン・ゼア・ダン・ザット(Been There, Done That)」も収録されている。同曲は、ドレーがギャングスタ・ラップへの決別を表現していることが特徴的な曲であった。アルバムはプラチナムとなったが、ドレーとしては商業的にも質的にも失敗作であったといわざるを得ない。
1997年には、ナズ、フォクシー・ブラウン、AZ、ネイチャーらが参加したアルバム「ザ・ファーム(The Firm: The Album)」に収録された数曲をプロデュースした。このアルバムもプラチナムとなったが、同様に批判的な評を受けた。
アフターマスの転機は、ドレーがデトロイトのラッパー、エミネムと契約した1998年に訪れた。1999年にはエミネムのメジャーデビューアルバム「ザ・スリム・シェイディ LP(The Slim Shady LP)」、続く2000年には「ザ・マーシャル・マザーズ LP(The Marshal Mathers LP)」をプロデュースした。後者のアルバムで、より多くの曲を手がけているが、うち5曲はメル・マンとの共作である。2002年発表の「ザ・エミネム・ショウ(The Eminem Show)」では、エミネム自身のプロデュースが増えているが、2004年発表の「アンコール(Encore)」では再びドレーのプロデュース曲が増えている。
ドレー自身の2枚目のアルバム「2001」は1999年に発表された。同アルバムにはデヴィン・ザ・デュード、ヒットマン、スヌープ・ドッグ、エミネムなど、多くの客演があった。
2000年には、グラミー賞のプロデューサー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。これは「ザ・マーシャル・マザーズ LP」と「2001」における業績に与えられたものである。これらのアルバムは、深く豊かなベースラインに高音のピアノと弦楽器のメロディを重ねるという、その後の楽曲の方向性を示唆した。このスタイルは、ドレーのプロデュースの、イヴの「レット・ミー・ブロウ・ヤ・マインド(Let Me Blow Ya Mind)」、バスタ・ライムズの「Break Ya Neck」、メアリー・J・ブライジの「ファミリー・アフェアー(Family Affair)」などの各曲に活かされている。
「セット・イット・オフ」、「ザ・ウォッシュ」、「トレーニング デイ」などの映画にも出演。彼自身は後に役者になるつもりは無かったと語っている。ノクターナル(Knoc-turn'al)をフィーチャーした「バッド・インテンションズ(Bad Intentions)」は、「ザ・ウォッシュ」のサウンドトラックに収録されている。同サウンドトラックでは、他に「On the Blvd.」、「The Wash」という曲で、スヌープ・ドッグと競演している。
2003年には、クイーンズ地区出身のMC50セントのメジャーデビューアルバム「ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン(Get Rich Or Die Tryin')」をエミネムと共にプロデュースし、ヒットさせた。同アルバムからは、特にドレープロデュースのシングル「イン・ダ・クラブ(In Da Club)」がヒットした。
ドレー自身の最後のアルバムになると噂されている「Detox」は、2004年に発表されると言われていた。同アルバムの制作は中止になったと一時期言われた。これは、ドレー自身がアフターマスに所属する他のアーティストのプロデュース業に専念するという発言による。しかし、2004年11月には再び2006年にリリースする予定であると告げられた。ドレーは2006年発表のスヌープ・ドッグの8枚目のアルバム「The Blue Carpet Treatment」に、久々にプロデュース曲を提供している。
[編集] アルバム
- クロニック - The Chronic (1992年)
- ドクター・ドレー・プレゼンツ〜ジ・アフターマス - The Dr.Dre Presents...The Aftermath (1996年)
- 2001 - Dr.Dre 2001 (1999年)
[編集] 映画
- Rhyme&Reason ライム&リーズン - Rhyme & Reason (1997年、出演)
- ウェルカム・トゥ・デス・ロウ - Welcome To Death Row (2001年、出演)
- ザ・ウォッシュ - The Wash (2001年、製作総指揮・歌・出演)
- トレーニング・デイ - Training Day (2002年、出演)
- ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン - Get Rich Or Die Tryin' (2005年、製作)