ニールス・ボーア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア(Niels Henrik David Bohr デンマーク語ではネルス・ボア[nels ˈb̥oɐ̯ˀ]と発音, 1885年10月7日 - 1962年11月18日)は、デンマークの理論物理学者。量子論の育ての親として、前期量子論の展開を指導、量子力学の確立に大いに貢献した。
[編集] ヨーロッパ時代
1903年にコペンハーゲン大学に入学。1911年にイギリスへ留学、キャヴェンディッシュ研究所の後に、マンチェスター大学のアーネスト・ラザフォードの元で勉強した。コペンハーゲン大学に戻り、マックス・プランクの量子仮説をラザフォードの原子模型に適用して、1913年にボーアの原子模型を確立した。1921年にコペンハーゲンに理論物理学研究所を開き、外国から多くの物理学者を招いてコペンハーゲン学派を成することになる。原子物理学への貢献により1922年にノーベル物理学賞を受賞。
その後も、ヴェルナー・ハイゼンベルクらの後進とともに、量子力学(行列力学)の形成を推進。エルヴィン・シュレーディンガーが波動力学を発表したときには、コペンハーゲンに招きよせ、討論に疲弊して倒れたシュレーディンガーの病床で議論を続けたことは有名である。アルベルト・アインシュタインが量子力学に反対するようになると、尊敬するアインシュタインとも論争を続けて説得しようとした。有名なエピソードにマックス・ボルン宛にアインシュタインが書いた手紙("Der Alte würfelt nicht."神はサイコロを振らない)に反論した名言("Einstein, schreiben Sie Gott nicht vor, was er zu tun hat."アインシュタインよ、神が何をなさるかなど、注文をつけるべきではない)がある。ボーアは社交的な人柄だったので、多くの物理学者から慕われ、量子力学の形成に指導的役割を果たしたのである。
[編集] アメリカ時代
第二次世界大戦が始まり、ナチス・ドイツがヨーロッパでの侵略を始めると、ユダヤ人を母に持つボーアはイギリスを経由してアメリカに渡った。
1939年に発表されたボーアの原子核分裂の予想(ウラン同位元素235は分裂しやすい)は、原子爆弾開発への重要な理論根拠にされた。しかし、ボーア自身は原子エネルギーの軍用化に反対であり、原爆開発阻止に奔走したが、結局ボーアの願いは叶わなかった。
- (参照記事:広島原爆投下#原爆投下阻止の試みと挫折)
[編集] 余談
彼の肖像はデンマーク王国の500クローネ紙幣に採用されている。(英語版w:Danish five-hundred-kroner billを参照のこと)
なお、ボーアは若い頃サッカーが得意だったが、デンマーク代表としてオリンピックに出場し銀メダルを獲得したのは弟のハラルト・ボーアである。ハラルトは数学者で、リーマンのゼータ関数を研究し、また概周期関数を発見した。
また、1975年には、息子のオーゲ・ニールス・ボーアもノーベル物理学賞を受賞した。
更に、父のクリスチャン・ボーア(Christian Bohr)は、ボーア効果で知られる生理学者である。
カテゴリ: デンマークの物理学者 | ノーベル物理学賞受賞者 | ユダヤ人 | 1885年生 | 1962年没