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ノート:ノモンハン事件 - Wikipedia

ノート:ノモンハン事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

目次

[編集] 勝敗の考察について

本文の記述を直しました。間違えてログインせずに投稿ボタンを押したのでユーザー名がIPアドレスになっていますが、投稿者61.124.124.216というのは私です。--Inti-sol 2006年4月17日 (月) 14:13 (UTC)

ウィキペディアは論争の場ではないので、芋太郎氏の見解が妥当性を欠くと考えられる根拠をこちらに記載します。

  • ノモンハン事件の場合には、双方の戦争目的が明示されていたとは言えない。→戦争目的は当初から互いに自陣営の主張する国境線までの領土を確保する、と明示されていました。
  • ソ連が、モンゴル辺境の資源に乏しい地域の国境線を10~20キロ拡張することだけを目的として、人的、物的に膨大な犠牲を覚悟したと考えることは、あまりに不自然である。→ソ連の指導者はスターリンです。ほとんど何の根拠もないまま膨大な数の軍人、古参共産党員、そして一般国民を粛清したことから考えれば、10~20キロの国境線拡張のために数千人の兵員を犠牲にすることは、何とも思わなかったとしても、不自然ではありません。また、同様のことは日本軍についても言えます。関東軍の暴走に対して、大本営には懸念をもつ向きもあったものの、結局は「たかが1個師団くらい関東軍の好きにさせてやれ」ということで、独断専行は黙認されました。つまり、日本軍にも、1個師団くらいは無意味な戦闘に注ぎ込んでも構わない、という感覚が存在したのです。もちろん、大本営にしろ関東軍にしろ、まさかその1個師団が壊滅してしまう、などと予想していたわけではありませんが。
  • これは結果的に国境紛争であり、停戦の前には、係争地域の北部をソ連が占領し、南部を日本が占領した状態で、戦線は膠着状態になっている。→係争地域はソ連軍が大部分を占領しています。確かに、全部ではない。日本軍が保持し続けていた部分もあるにはありましたが、それはごく一部です。また、ソ連側は、事前にスターリンがソ連・モンゴル側の主張する国境線より先に侵攻してはならないと厳命していたから、ほぼその線で進撃を停止したのであって、膠着状態ではありません。従って、停戦交渉でモロトフが現在線での停戦に難色を示したというのは、単なるブラフであったと考えられます。なぜなら、ソ連軍はその時点での現在線より先に侵攻する意志がまったくなかったからです。アルシャン地区で日本側の主張する国境線がとおったというのは、要するにその方面にはソ連軍が侵攻しなかったからです。理由は分かりませんが、ソ連軍にとって重要ではないと判断したのかもしれません。
  • ただ、ソ連側から停戦を申し入れてきて、日本側に譲歩を示したことからすれば、ソ連側が戦争が長引けばソ連に不利と判断したことは間違いない。→この戦争を長引かせることがソ連にとって不利益だったことは確かです。9月に入って、ヨーロッパでは第二次大戦が始まっています。短期的には独ソ不可侵条約で後顧の憂いを断っていたとはいえ、こんな条約が永続すると信じるほどスターリンはお人好しではなかったし、11月にはソ連軍はフィンランドに侵攻しています。ノモンハンの戦いを長引かせて二正面作戦に追い込まれることは避けたかったでしょう。しかし、日本軍にとってもこの戦いを長引かせることはきわめて不利だったのです。この当時、日本軍は中国で果てしない泥沼の戦いを行っていたことを忘れてはいけません。ソ連と更に戦争を拡大させる余力などなかったのです。しかも、日本軍は特に航空機・重砲・戦車の分野でこれ以上戦闘を継続できない状態に追い込まれていました。例えば、戦車は実質1週間にも満たない戦闘で29両を失いました。投入した戦車がたった80両しかなかったうちの29両です。しかも、この約80両は、「満洲」にあった日本軍戦車の約半数で、これから日本軍の戦車部隊を拡大していく母胎となるはずのものでした。ここで全滅してしまうと、日本軍の戦車部隊の将来もなくなってしまうので、陸軍はあわてて戦車を引っ込めたわけです。それでも戦車は1週間足らずで後退させたから、半数以上は生き残りましたが、最後まで戦場にあった砲兵の末路は悲惨でした。重砲は文字通り全滅したのです。砲兵に属する将兵で生き残った人はいますが、大砲は一門残らず失われました。航空部隊の受けた打撃は更に大きいのです。当時「満洲」にあった航空部隊は400機にも満たない。その半数近くが失われたのです。当時日本軍戦闘機の主力だった97式戦闘機は、本土の部隊も含めて増援に出せる部隊がなくなってしまい、最後は複葉の95式戦が出動したことは本文に書いたとおりです。複葉の95式戦でどれだけ戦闘を継続可能だったかといえば、ほとんど継続不可能でしょう。--Inti-sol 2006年4月16日 (日) 16:37 (UTC)


芋太郎という方の勝敗の考察の記述には疑問があります。ソ連側は厳密に100%ではないにしても、ほぼソ連側の主張する国境線まで日本軍を押し出して停戦していること、また、「勝敗を判断する上での明確な基準は、一方が降伏したり、壊滅したり、完全に占領されたり、賠償金を支払ったりすることであろう。」と書かれていますが、ノモンハンに投入された日本軍が、ほぼ壊滅と言っていい大損害を受け、ソ連/モンゴル側の主張する国境線の向こう側は完全に占領されました。確かに、ソ連軍も日本軍と同様に大損害を受けていますが、投入した兵力が日本軍より多かったから、大損害を受けてもなおまだ戦力を残していた。戦線が膠着状態になったのは、単にソ連軍が自国の主張する国境線より先に進む意志がなかった、というだけのことであり、それはヨーロッパで第二次世界大戦が始まっていたので、これ以上極東で戦争を拡大することを望まなかったからでしょう。

このあたりの部分について、納得ある説明がなければ、後刻本文の説明を元に戻します。--Inti-sol 2006年4月16日 (日) 02:40 (UTC)

内容的にはInti-solさんの指摘が正しいと思います。また、加えて、戦史研究者はみな日本の敗北とみなしているのですから、それを覆す努力をウィキペディア上で展開するのは場違いというものです。ウィキペディアは、ユーザー独自の解釈を載せないことにしています。多くの人は、自説をインターネット上で主張するためには自分のサイトを作ってそこに文章を載せます。芋太郎さんにもそのようにしていただきたく思います。Kinori 2006年4月21日 (金) 11:29 (UTC)
同意します。あと、半乾燥地帯における水資源の戦略性について考えると、河そのものが資源ということも忘れないでほしい。--Los688 2006年4月21日 (金) 11:35 (UTC)

 芋太郎です。はじめまして。こういう場所があることを知りませんでした。Kanoeさんに教えていただきました。ありがとうございます。

 Inti-solさんは、とてもお詳しそうですので、質問させてください。

(1)「戦争目的は当初から互いに自陣営の主張する国境線までの領土を確保する、と明示されていました」とありますが、何に明示されていたのでしょうか。文書でしょうか、声明でしょうか。具体的にお示しいただければと思います。

(2) 「係争地域はソ連軍が大部分を占領しています」とありますが、秦郁彦教授の説明とはまったく違います。『二十世紀日本の戦争』という本で、「日本軍はその南側にほぼ同じ広さを確保してしまう」と書いておられます。『昭和史の謎を追う』に図示されている範囲でも、相当な広さです。何を根拠に「それはごく一部です」と主張されるのでしょうか。

(3)「アルシャン地区で日本側の主張する国境線がとおったというのは、要するにその方面にはソ連軍が侵攻しなかったからです」と書いておられますが、997高地などを攻撃・占領した宮崎連隊は、数十台の敵戦車群と激戦の上、これを追い払っています『昭和史の謎を追う 上』(p.164~167)。相手はソ連軍の戦車ではなかったのでしょうか。

 以上のような疑問をいだきました。 (以上、2006年4月21日 (金) 11:59 芋太郎による。)


慣例的にウィキペディアでは人の発言の下に返事をつけていくので、そのように場所を移させていただきました。Inti-solさんではありませんが、一部に答えさせていただきます。
結局のところ、秦郁彦はノモンハン戦を日本軍の負けとみなしていますよね。秦郁彦の説なら載せる意味がありますが、引き分け、判定と唱えているのが芋太郎さんなら、ウィキペディアに載せる場所はありません。(3)についてですが、存在しない戦車の報告なら、第一次ノモンハン事件にもあります。おそらく装甲車の誤認です。別にノモンハンに限らず戦史についていろいろ本を読んでいけば、敵側からの報告がいかにあてにならないものかわかると思うのです。Kinori 2006年4月21日 (金) 12:27 (UTC)
(1)について。日本側、正確には関東軍は、「満ソ国境紛争処理要綱」なるものを定めて、ソ連軍の越境(日本側の主張する国境線から見ての越境)があれば、「周到なる計画準備の下に充分なる兵力を用い、之を急襲殲滅す」と、武力による撃退を義務づけていました。関東軍がソ連軍との戦いに突入した根拠はこの要綱にあります。一方、ソ連側も同様に第18回共産党大会で「ソ連は侵略国からの脅迫を恐れない。ソ連国境に対する打撃に対しては二倍の反撃をもって応ずる用意をもっている」という方針を明らかにしていました。いずれも紛争前に示されていた方針ですが、両軍ともこの方針に従って行動しています。
(2)と(3)については、すでにレスが付いているとおりだと思います。私はその本の現物をもっていませんけれど、秦郁彦がこの戦いを日本の負けと認定していることは知っています。「日本軍はその南側にほぼ同じ広さを確保してしまう」にもかかわらず日本軍の負けと判定したのは、関東軍が確保した南側の地域というのはあまり重要な土地ではなかったと、秦郁彦が判断していた、ということでしょう。--Inti-sol 2006年4月21日 (金) 15:35 (UTC)


 お世話になります。芋太郎です。Kinoriさん、Inti-solさん、さっそくのご回答、ありがとうございます。そして、人の発言の下に返事をつけるんですね、失礼しました。

 「秦郁彦はノモンハン戦を日本軍の負けとみなしていますよね」ですが、それはいつの時点の話でしょうか。私が引用しました『二十世紀日本の戦争』(文藝春秋、平成12年)では、次のように発言しておられます。

 「一般にノモンハン事件は日本軍の惨敗だったと言われるが、ペレストロイカ以後に旧ソ連側から出た新資料によれば、実態は引き分けに近かったようです」(p.122)

 その後に、

「ただ損害の面では、確かに日本軍のほうが少なかったのです。領土に関していえば、一番中心的な地域では、ソ連側の言い分通りに国境線が決まったが、停戦間際、日本軍はその南側にほぼ同じ広さを確保してしまう。それがいまだに中国とモンゴルの国境問題の種になっています」(p.122)

 という発言が続きます。平成12年での秦郁彦氏の認識は、“引き分け”に近いというものです。

 「存在しない戦車の報告」のお話もございましたが、日本側の戦果記録によれば、戦車の破壊が20両となっています。日本軍は、それと実際に戦って苦戦しており、最終的に応援の第三大隊と野砲大隊が追い払っています。

 秦郁彦氏は、モンゴル側の戦史も調査しておられ、「この戦闘に出動したソ連軍は、ザイユリエフ少佐の指揮する戦車大隊(約50両)」と、モンゴル軍であった書いておられます(『昭和史の謎を追う 上』、p.168)。双方の記録が一致しているのです。「装甲車の誤認」とは、とても思えません。

 私が戦線は膠着状態になったと書いた理由は、9月8日からの宮崎連隊による997高地周辺での反撃・占領に対して、撤退したソ蒙軍からの反撃がなかったためです。結局、占領地を確保したままで停戦を迎えます。

 これは、9月11日の1031高地(三角山)周辺の攻防戦も同様で、深野大隊がソ蒙軍(こちらはモンゴル軍が主体)をハルハ河西岸に追い払うと、ソ蒙軍は追撃を阻むために橋を落としてしまいます。当然、反撃はありませんでした。

 ソ連側は、自らの主張するハルハ河東岸10数キロという国境線が、南部では完全に破られているにもかかわらず、反撃していないのです。それを膠着状態と表現しました。

 ソ連側の、第18回共産党大会で「ソ連は侵略国からの脅迫を恐れない。ソ連国境に対する打撃に対しては二倍の反撃をもって応ずる用意をもっている」という方針ですが、ノモンハンは“ソ連国境”ではありません。外蒙(モンゴル)と満州の国境です。これを使って、ノモンハン事件の戦争目的とするのは、苦しいと思いませんか。“これがノモンハン事件の戦争目的だ”といった確実な資料はないのでしょうか。

 日本側にしても、停戦協定で北部についてはソ連側の主張を受け入れた理由は、これが満州国の領土問題だからです。仮にこれが日本の領土問題であれば、関東軍は言うに及ばず、日本政府も大本営も、譲歩するわけありません。

 私は、ソ連側の主張する、ノモンハン―970高地―フロン山を結ぶ線と、1941年に合意された国境線を比べて見ましたが、日本側が占領した地域は、決して「ごく一部」ではありません。相当な広さですよ。ハンダガヤ周辺から南方では、国境線はハルハ河に戻っています。一度、自分の目で確認されるよう希望します。

 それが「関東軍が確保した南側の地域というのはあまり重要な土地ではなかった」とのご発言ですが、東郷大使は、現に“日満側の尤も重要視する「アルシャン」地区”と記録しています。

 ソ連側の1/3から1/10と言われる兵力で、よくそれだけ確保できたものと感心します。モンゴルでは、これを「500平方キロを失った」と称するそうです(『昭和史の謎を追う 上』、p.172)。

 ただ、私はこの地域全体が、そんなに重要だったとは思いません。モンゴルの放牧民にとっては、家畜の餌や水を与えるために重要かもしれませんが…。当時の日本やソ連にとって、何の意味があったのでしょう。

私が読んだのは、クックスの訳本の解説と、『昭和史の謎を追う』です。そこではノモンハンで日本軍が負けたという認識だったと思います。『二十世紀日本の戦争』は読んだことがありません。氏が現在そのような認識で書いているのであれば、「引き分けに近かった」という記述を併記すべきだと思います。(『昭和史の謎を追う』のほうの記憶もあやふやだったようで、恥じ入るばかりです。)
ただやはり、それをあのように滔滔と論じる必要はないと思うのです。ウィキペディアはともかくも百科事典を標榜していますから、既存の知識を要約するのが使命であり、同じことなら短く書くのが良いです。芋太郎さんの言うところは一段落で要約できると思います。参考にした資料を示さなければ受け入れられないのではないかと不安になったら、このノートに記しておけば良いわけで。「両軍の損失」の項を「両軍の損失と勝敗」と改めて、そこにはめこむ形にしませんか。Kinori 2006年4月23日 (日) 00:08 (UTC) 例えば下のような感じで。

事件後に第6軍軍医部が作成した損害調査表によれば、日本軍の損失は戦死7720人(うち軍属24人)、戦傷8664人(うち軍属17人)、戦(平)病2363人(うち軍属13人)、計1万8979人であった。これは戦傷病から戦死に振り替える調整が終わっていない数値である。判明参加兵力の32.2%が失われ、特に第23師団は79.0%の損失であった。また、重砲は投入した全門が失われ、戦車・航空機の損害は前述のとおり約30両と180機であった。

これに対して、ソ連側の損害については一切公開されてこなかったが、1990年代からはソ連側資料が公開された。そのうちの一つには、ソ連軍が戦死・行方不明約8000人、負傷・病気約1万6000名、合計約2万4000名、飛行機の損失約350機、装甲車両約300両という損害が記されていた。これはソ連軍にとっても大損害であった。

ノモンハ事件の結末について、当時の日ソ両国はともに自国の勝利と宣伝した。しかし、中立的な観察者・研究者の間では、日本軍がほとんどなすところなく惨敗したという見方が有力であった。外に向かって勝利を宣した日本陸軍も内部的には敗戦とみなして戦後処理を行っており、他方のソ連軍は戦争に勝ったと考えていた。

装備劣悪な日本軍の惨敗という見方は、戦後に日本軍が受けた甚大な損害が明らかになって広く定着した。この事件で関東軍独走を演出した辻政信は、戦後になって、ノモンハンで本当は日本軍は勝てたはずだったのだが、東京から制止されたために負けたことにされてしまったと唱えた。しかし、研究者はもとより、参加した将兵にもその説を支持する者は少なかった。

1990年代以降、ソ連軍の損害が明らかになると、ノモンハン戦が一方的なものだったという見方は改められた。そこから進んで、ノモンハン事件の結果は引き分けに近かったとする説が現れた。引き分け説の根拠としては、ソ連軍の損害のほうが大きいこと、停戦前に日本軍が確保したハンダガヤ方面の領土がノモンハンでソ連軍が確保した領土にひけをとらない面積であることが挙げられる。


補足します。これだとまた別のところをかなり削っていますが、人事のこと、政治と軍事関係のことなどは、直上の「両軍が得た軍事的教訓」に移すべきだろうと思います。

また、八月攻勢が一方的というところですが、おそらくソ連軍の損害の多くは八月攻勢で出ているので、表現に工夫の必要があろうかと思います。7月前半の渡河・戦車・連続夜襲の時期のソ連側損害は3000人だとか。日本側は「総攻撃」までいれて5000人なので、たぶんこの時期は日本軍の損害のほうが多いのでしょう。7月のソ連軍の数は少ないので、例えば日本軍の損害の倍を失ったとすると、ソ連軍がほとんど全滅したことになり、終始活発に交戦していた戦場の様子と異なります。やはり7月のソ連軍の損害は少なかったとみるのが妥当かと思います。そうなりますと、その分の損害は8月にまわります。昼間に開けた平地で歩兵が突撃するという戦術が損失の原因ではなかろうかというのが自分の独自の考察なのですが、そこまで載せろとは言いません。八月攻勢時のソ連軍の損害は少なかったという説が有力なものとして唱えられているのでなければ、削っておくのが良いと思います。Kinori 2006年4月23日 (日) 01:43 (UTC)


秦郁彦については、近いうちに該当部分を読んでみます。

しかし、領土については、「領土に関していえば、一番中心的な地域では、ソ連側の言い分通りに国境線が決まったが、停戦間際、日本軍はその南側にほぼ同じ広さを確保してしまう。」と書いているなら、やはり南側は中心的な地域ではなかった、ということになるのではないでしょうか。ソ連側は、もっとも重要な地域を手に入れたから、あとはもうどうでも良かった、のかもしれません。

ノモンハンはソ連の国境ではない、という件は、ソ連のモロトフ外相は日本の東郷大使に、「ノモンハン方面における日満軍の侵略行為に関して、ソ連政府はモンゴルとの相互援助条約にもとづき、厳重に抗議する」「わが国としてはこれ以上の侵略行為は許さない」とする抗議を行っています。(「ノモンハンの夏」P.107)もちろん、本音の部分では、ソ連軍も関東軍も、こんなところの国境線などどうでも良かったのでしょう。実際、ソ連側が「満洲」側の主張する国境線を認めていた時期も、日本側がモンゴル側の主張する国境線を認めていた時期もありました。実際には、主権と主権のぶつかり合いというか、メンツの張り合いというか、その程度のものでしょう。しかし、タテマエとしては少なくとも、お互いに国境線が戦争の理由です。

損害の比較で、ソ連軍より日本軍の方が少なかったことは事実ですが、しかし分母が違うこともまた確かなのです。つまり、ソ連軍はあと何回でもノモンハン事件を戦えるだけの兵力と装備があったけれど、関東軍にはもうなかった。戦車は関東軍の全戦車(約170両)の半分近くを投入して、まるで歯が立たずにすぐ撤退しているし、航空機は400機弱の保有機に対して損害が180機前後にも達している。特に空戦の主役である戦闘機はほとんど壊滅。これでは戦闘の継続など不可能です。

ソ連側の1/3から1/10と言われる兵力で善戦したというのは戦術レベルの話で、戦略レベルで考えれば、その程度の兵力しか用意しなかったこと自体が敗北です。

三角山に踏みとどまった日本軍は、敵の海の中で孤立した状態であったと記憶していますが、違いましたでしょうか。

それから、ソ連軍の犠牲者がどの段階で出たか、詳細な内訳をもっているわけではありませんが、ソ連軍がかなり苦戦を強いられたのは7月までの段階ですから、そこで大半の犠牲が出たであろうことは間違いないでしょう。端的に言って、7月までの時点では日本軍はソ連軍と一進一退の戦いを続けていたし、日本軍が相当数のソ連軍戦車を撃破できたのも7月までの段階でした。8月の時点では、ソ連軍の戦車は火炎瓶では炎上しないディーゼルエンジンに変わっていたし、日本軍の速射砲や重砲はほとんど弾薬が底をついていました。もしソ連側の犠牲者の大半が8月攻勢の際に出ているとしたら、逆に7月までの段階の日本軍の善戦は、実は善戦ではなかった、ということになってしまいます。--Inti-sol 2006年4月23日 (日) 15:21 (UTC)


芋太郎です。お世話になります。

Kinoriさんのお考えに、基本的に同意します。私は、つい長々と説明してしまいましたが、“百科事典”は、“参考書”ではありませんから、確定した事実を、簡潔に記述することがいいと思います。

一方で、ぜひやめていただきたいことは、独ソ戦やベトナム戦争と同列に扱うことです。この二つの戦争は、誰が見ても、一方が“完全な勝利”を得ていますので、戦死者や被害の大小を論じるのが無意味なことも、歴然としています。

ノモンハン事件は、このような戦争ではなく、停戦交渉によって決着した国境紛争です。そして、勝敗の判定は、人によって分かれています。たとえば、福井雄三・大阪青山短大助教授は、「ノモンハン事件は日本軍の勝利であった」と書いておられます(『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実』、p.111)。

このような状況下で、公平・中立であるべき“百科事典”において、「日本側の敗北」と断定することには、賛成できません。基本的に、100%間違いないことしか、書かないでほしいものです(どうしても書くならば、各論を併記してください)。それが、“百科事典”への信頼につながります。

また、日本側に余力が残っていなかったわけでもありません。現実に、8月26日からは精鋭といわれた第七師団が戦場に到着し始めています。勝っている中国戦線からの兵力転用は、可能だったはずです。中国の重要拠点に絞って守るには、少ない兵力で十分です。少なくとも関東軍は、やる気満々でしたから。

逆に、余力がなかった(あるいは戦意を喪失した)のは、ソ連側ではないかと推測します。後になって、ソ連のジューコフ将軍は、「どの戦いが最も苦しかったか」という質問に対して、即座に「ノモンハン事件だ」と答えたそうです(『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実』、p.141)。

スターリンの指示どおりに北部は占領したものの、南部で日本軍に負けても反撃してきませんでした。十分な余力と戦意があるのならば、すぐさま反撃してくるはずです。

9月になってからのソ連側は、北部に塹壕を作って、守りに徹していたという印象です。欧州方面での情勢急変もあり、自分たちに不利だから、ソ連側が停戦を申し入れてきたのです。南部を日本軍に制圧されている状況で、“有利”なはずのソ連側が停戦を申し入れると考えるのは、いかにも不自然です。

それと、ノモンハン事件は、9月9日から15日にかけてモスクワで行われた停戦交渉によって完結した戦いですので、短くてもいいですから、何らかの形で、東郷大使とモロトフ外相との交渉の内容に触れていただきたいと思います。国境線は、戦闘だけでなく、最終的にはこの二人の交渉で決まったのです。たとえば、

「モロトフ」は右地域中、日満側の尤も重要視する「アルシャン」地区はこれを満州国の所属とするに異存なしと云うので、他の地域は凡てこれを蒙古領とするに同意して本件を決定し、更に現地にて境界測定をなすこととなった。~『時代の一面 大戦外交の手記』(東郷茂徳、中公文庫、p.204)

という文言を紹介することは、事実そのものですから、誰にも反論しようがありません。繰り返しますが、“百科事典”には、100%の事実だけを書いていただければと思います。勝敗の判定は、読者にまかせるべきではありませんか。

なお、9月11日、三角山の攻防戦については、前回書きましたとおり、日本側の完勝です。最終的に、日本軍得意の白兵戦に突入し、モンゴル兵を主体とするソ連側が“殲滅”されています(実際には退却)~(『昭和史の謎を追う 上』、p.170)。

ソ連側が占領した北部と、日本側が占領した南部との違いですが、作家の半藤一利氏は次のように述べておられます。

半藤 もう一つノモンハン地区といわれるところには井戸があるんですよ。だから、その井戸が入るように国境線を引いてあるんです。~『昭和史の論点』(文藝春秋、p.120~121)

私が知る限り、その程度の違いです。このあたりはほとんど無人地帯ですから、モンゴルの遊牧民が家畜を連れて行く先としては井戸の意味はありますが、日本やソ連にとっては、ほとんど無意味な違いです。

むしろ、『ノモンハンの夏』に出てくる、外国人記者と日本軍将校との一問一答の方が、単純明快で的を射ています。

「この下にダイヤモンドがあるのか。石油があるのか。石炭があるのか」
「何もない」

以上です。具体的な記述については、よろしくお願いします。


独ソ戦やベトナム戦争と同列に扱うことです。この二つの戦争は、誰が見ても、一方が“完全な勝利”を得ていますので、戦死者や被害の大小を論じるのが無意味なことも、歴然としています。ノモンハン事件は、このような戦争ではなく、停戦交渉によって決着した国境紛争です。
→「完全な勝利」という言葉の定義はなかなか難しいものがあると思います。ベトナム戦争で、米軍は戦闘では敗北していません。そして、米軍が撤退したのもパリ協定に基づきます。ベトナム戦争が北ベトナムと解放戦線の勝利に終わったのは、米軍の撤退後のことです。それにもかかわらず、国際政治というレベルで言えばベトナム(北ベトナムと解放戦線)が米国に勝ったことは歴然としている。
戦争とは他の手段をもってする政治の延長である、と言ったのはクラウゼヴィッツです。損害の多い少ないの比較ではない。では、ノモンハン事件ではどうだったのでしょう。芋太郎さんがおっしゃるとおり、タテマエはともかく、確かに本音の部分では、こんな草原のまっただ中の国境線など、どうでも良かったでしょう。では、それにも関わらずなぜ日ソ両国は、そんな「どうでも良い」草原のただ中の国境線を巡って戦ったのか。
ソ連側の理由ははっきりしています。いよいよヨーロッパで戦争が間近に迫ってきたし、特にソ連自身が11月にはフィンランド侵攻しています。それなのに、それを前にして極東で偶発的に日本との紛争が始まってしまった。二正面作戦など論外です。だとすればヨーロッパで戦争が始まる前にこちらの決着を付けるしかない。もちろん、スターリンにノモンハンでは負けを認めて兵を畳む、などという考えはありません。そんなことをすれば日本軍が更につけあがると考えていたでしょう。だから、何としてもヨーロッパで戦争が起こる前に、こちらはカタを付ける。これがスターリンの考えていた「政治」でしょう。そのために、独ソ不可侵条約という裏技でヨーロッパでの戦争の危機を一時的に引き延ばしてノモンハンに集中し、その決着が着いたら再びヨーロッパへ。スターリンの、二正面作戦を避ける努力は徹底しており、そしてそれには完全に成功しています。
※ けれども、ソ連は引き続くフィンランドへの侵攻ではボロボロに負けてしまうのですが・・・・。
では、日本軍の本音の戦争目的は何だったのか。はっきり言えば、日本側に戦争目的はないのです。大本営も政府も、ノモンハンで戦争をするつもりなんかないのですから、戦争の目的があるわけがありません。日本軍の側のノモンハンの戦争目的というのは、関東軍の一部参謀たちの個人的野心でしかない。戦略レベルで見れば、この段階ですでに決着は着いてしまっているわけです。
また、日本側に余力が残っていなかったわけでもありません。現実に、8月26日からは精鋭といわれた第七師団が戦場に到着し始めています。
→第7師団は、3個連隊のうちの1個連隊(第26連隊)と速射砲・連隊砲各2個中隊・自動車2個中隊などがすでにノモンハンに参戦しており、大変善戦はしましたが、損耗率9割を越えほとんど壊滅状態となっていました。つまり、精鋭の第7師団といっても、実態は2個連隊の旅団規模でしかありません。
また、中国戦線で、日本は終わりのない泥沼の戦いに引き込まれており、勝利を得られる見通しなどまったく立っていませんでした。「中国の重要拠点に絞って守るには、少ない兵力で十分です。」というのは、あまりに中国戦線の現実からかけ離れています。現にこのとき、中国には50万人をはるかに越える日本軍の大軍が張り付いていました。だからこそ大本営は、辻政信らが更にノモンハン事件を拡大しようとしたとき、さすがに断固としてそれをやめさせたのです。関東軍という一方面軍の戦力というレベルで見てどれほどやる気があったとしても、日本全体としてみれば、中国とソ連との二正面作戦などという余力は、とてもありませんでした。
ジューコフが一番苦しかった戦いを聞かれてノモンハン(ハルハ河)と即答したという話は、ソ連側の損害の実状が明らかになる以前から有名なエピソードです。それは、ジューコフにとって日本軍が手強い敵だったということは意味しても、ソ連軍が日本軍に負けた、という根拠としてはあまりに弱いと思います。
--Inti-sol 2006年4月24日 (月) 14:51 (UTC)


芋太郎です。Inti-solさんのご意見に感謝します。

“「完全な勝利」という言葉の定義はなかなか難しいものがあると思います”とのことですが、私がここで意図しているのは、「北ベトナム vs. 米国」ではありません。「北ベトナム vs. 南ベトナム」です。南ベトナムは、完全に負けて消滅しました。北ベトナムは完全に勝利しました。勝敗は、誰が見ても明らかです。

しかし、問題が米国となると、これは意見の分かれるところです。Inti-solさんのようなご意見が存在することは承知しておりますが、私は同意するものではありません。ここでの論争はやめておきましょう。


「はっきり言えば、日本側に戦争目的はないのです」

これには、私も同意します。やっと意見の一致を見ましたね。

同様に、ソ連側でも、ノモンハン事件での戦争目的は明示されていません。スターリンが「これこれの理由で、わが軍はノモンハンで戦う」と内外に宣言して戦争に入ったのならともかく、共産党が以前に打ち出した国土防衛上の方針を、そのまま「ノモンハン事件の戦争目的」として流用することには、賛成できません。

たとえば、道路で自動車を運転する際には、道路交通法に従って運転します。だからといって、運転する目的が道路交通法であるとはいえません。場合によっては、スピード違反してでも、緊急の用事を済ませなければならないこともあります。

戦争とは、国家にとって、存亡の一大事です。以前の方針があろうが、なかろうが、独裁者スターリンは、何かの冷徹な判断をしたものと思われます。ただ、それが何であったかは明示されていません。私も、いくつかの推測があることは承知しておりますが、“百科事典”の論議にふさわしい内容とは思いません。

「精鋭の第7師団といっても、実態は2個連隊の旅団規模でしかありません 」

これについては、秦郁彦氏も、無傷の兵力は歩25と歩27など、3,000余だったと書いておられます。ただ、余力は、なかったのではなく、現実にあったといいたいだけです。3,000人以上の戦意の高い精鋭が、まだ無傷で残っていたわけです。

中国戦線は、日本にとって、無用の戦いですね。最近では中学生の教科書にまで書いてあるのですが、昭和15年、斉藤隆夫代議士が、議会で日中戦争について「この戦争の目的は何か」と質問しましたが、政府は十分に答えられなかったそうです。しかし、攻めていたのは、そして勝っていたのは、明らかに日本軍ですから、兵力の一部転用は可能です。

ここからは歴史のifになりますが、関東軍は、第二、第四、第七師団の全力と、第一師団の一部などを戦場に投入する計画を立てていました。大本営からも、一部の考えかもしれませんが、第五、第十四師団などの中国戦線からの転用方針を伝えてきたといいます。私にいわせれば、もともと中国に大軍を張り付ける理由はありません。満州を守れば十分なのです。

「ソ連軍が日本軍に負けた、という根拠としてはあまりに弱いと思います」

これも認識が一致しましたね。私も「ソ連軍が日本軍に負けた」とは思っていません。ただ、ノモンハン事件において「日本軍がソ連軍に負けた」とも思っていないのが、違いでしょうか。“百科事典”においては、そう簡単に勝敗を断定すべきではありません。

もう、論議はこれくらいにしませんか。これ以上の新たな事実関係は、出てきそうもありません。

私からの要望を2つにまとめておきます。

(1) 現在ある、次の記述は、内容に疑問がありますので削除してください。

確かに、前線の日本軍将兵の戦いぶりが非常に勇敢であったことは、ソ連側の損害が明らかになる以前から知られていたし、ジューコフも前線の日本軍将兵の優秀さを認めていた。しかし、戦争の勝敗は損害の量の多寡によって決まるわけではない(損害の大小で勝ち負けを判定するなら独ソ戦はドイツの勝利、ベトナム戦争はアメリカの勝利になってしまう)。互いの主張する国境線を巡って戦われた戦争で、日本軍は日本側の主張する国境線から、ほぼソ連側の主張する国境線まで押し出されて停戦したのだから、戦争目的を達成したソ連が、達成できなかった日本に勝利したと見るのが妥当である。そもそも、大勝利説は日本軍自身すら信じていなかった(だからこそ関東軍首脳が更迭された)のであり、日本軍を弁護する意味での大勝利説は成り立たない(それだと日本軍は大勝利を大敗と誤認して人事異動や戦果発表を行なったことになる)。

(2) 前回要望しましたように、モスクワでの停戦交渉の内容も入れてください。これがないため、無用の誤解を生じています。

以上です。よろしくお願いします。


芋太郎です。「新たな事実関係」というほどでもありませんが、私の主張を補強する論文がネット上にもあります。ご存じない方もおられるかと思いますので、概要を引用して紹介します。

2003年度 博士論文 一橋大学大学院社会学研究科 博士論文要旨 論文題目:日ソ関係とモンゴル――満洲事変から日ソ中立条約締結までの時期を中心に 著者:マンダフ・アリウンサイハン(Ariunsaihan, Mandah) http://www.soc.hit-u.ac.jp/thesis/doctor/03/summary/ariunsaihan.html


 1939年の9月15日、ようやく日ソの停戦協定が成立し、双方から6万人の負傷者を出したノモンハン戦が終結した。停戦交渉成立後の東郷・モロトフ国境画定会議(1940年6月9日)において、モンゴルの国境は完全に回復されなかった。ヨーロッパ国際情勢の急激な変化によって、ヨーロッパと極東での2正面作戦を回避する必要性に直面したソ連が、モンゴルの国境問題で日本に妥協したからである。こうして、モンゴル固有の領土であるモンゴル南部のアルシャン地区は、満州側に残り、結局は中国に引継がれることになる。モンゴルは日ソの国交調整の代償として本来の領土の一部を失った。


上記の論文にも「モンゴルの国境は完全に回復されなかった」「モンゴル南部のアルシャン地区は、満州側に残り」と書かれているにもかかわらず、Inti-solさんは、「ほぼソ連側の主張する国境線まで押し出されて停戦」「戦争目的を達成した」「係争地域はソ連軍が大部分を占領」、日本軍が保持したのは「ごく一部」だと主張されています。

つまり、東郷大使が「日満側の尤も重要視する」と表現したアルシャン地区は、北部に比べて“取るに足らないほどの領域”ということになります。本当ですか? 一番大事なことですから、ぜひとも明快な論証をお願いします。

参考までに、モンゴル側が失ったと悔しがる500平方キロという広さは、日本でいえば淡路島の593平方キロに近く、国でいえばシンガポールの618平方キロには及びませんが、パラオ共和国の459平方キロを上回ります。

まずはInti Solさんへ。7月の日本軍善戦の件ですが、これは7月にソ連軍が少なかったためで、ソ連軍が少数だった理由はそれがソ連軍の作戦だったからです。詳しく説明しても現状では私の独自説にしかなりませんので省きますが、8月の損害が少ないと論じるものもまたないと思うのです。
浜の芋太さんへ。地図は確認しました。この点は浜の芋太さんが言う通りです。しかし東郷の言葉の引用は、文脈を無視したものだと考えます。「アルシャン地区をもっとも重視」というのは、アルシャン地区がノモンハン地区より重要だというのではなく、ノモンハンは絶望でも、アルシャン地区を確保できれば交渉担当者として大成功ということではないでしょうか。国境交渉・停戦交渉の説明を大見出しの下に作ることは必要です。ただそれは今の私の手に余るので、詳しい人が後々書けば良いと思っております。
しかし何はともあれ、ここで我々がなすべきことは、ウィキペディアとしての判断を下すことでも、ノモンハンについて論争することでもありません。現在の知識の水準を要約することです。私が目を通したかぎりでは、ソ連側損害が多いことをふまえた著作としては、以下のものがあります。

日本軍の敗北とした著作

  1. 鎌倉英也『ノモンハン 隠された「戦争」』
  2. 半藤一利『ノモンハンの夏』
  3. 星亮一『遥かなるノモンハン』
  4. 三野正洋・大山正『ノモンハン事件 日本陸軍失敗の連鎖の研究』
  5. ボリス・スラビンスキー『日ソ戦争への道』

日本軍の勝利とした著作

  1. 小田洋太郎・田端元『ノモンハン事件の真相と戦果』

引き分けに近いとした著作(私は読んでいません)

  1. 秦郁彦『二十世紀日本の戦争』
スラビンスキーのは外交研究の本で、その重要な一部がノモンハンです。鎌倉・半藤・星・三野らの本はどちらかと言えば一般向けですが、それぞれ耳を傾けるべきところがある良いものだと思います。秦郁彦の本は私は読んでいませんが、軍事史の分野では評価が高い人です。ただ小田・田端の本だけは、わざわざ真相探求から離れる方向で資料を選択しており、依ることができません。多数決で決めるということではありませんが、現在の知識水準をまとめれば、ソ連・モンゴル側が損害を多く出して勝利したとするのが妥当でしょう。4月23日に上で例示した私の文章は、引き分け説が主流になりつつあるかのような書き方になっており、まずいものでした。引き分けを唱える者が少数だということがわかるような書き方に改める必要があると考えております。Kinori 2006年4月29日 (土) 09:21 (UTC)


秦郁彦の「昭和史の謎を追う」をやっと入手し、該当部分を読みました。この本は基本的にはノモンハン事件を日本軍の負けとみなしています。該当部分が最初に執筆された時点では旧ソ連の秘密文書はまだ公開されていなかったようですが、その後書籍科されるまでの間に明らかになったので、追記というかたち触れられています。

997高地と三角山での戦闘についても読みましたが、この戦闘での日本軍の勝利をもって戦争全体を「引き分け」とみなすのは、あまりに無理がありすぎます。お互いに何個師団もの兵力を動員して戦った大戦争の中で、1個連隊(997高地)や、まして1個大隊(三角山)の勝利は、全体の戦局からみればごくささやかな局地的勝利としか言いようがありません。さらに、この地域で戦闘が始まったのは9月になってからです。それまでは、北部では大部隊同士の激戦が繰り広げられているにもかかわらず、南部では戦闘はほとんど起きていませんし、展開していた部隊も、日本側は満州国軍、ソ連側はモンゴル軍が中心の小部隊です。つまり、日本側もソ連側も、この地域を重視していなかったのです。それが停戦を目前に控えた9月になって突然激しい戦闘が起こったのは、関東軍が「一部ではソ連軍に勝った」という名目を欲していたから、というだけのことでしょう。ソ連軍・モンゴル軍がそれに対して反撃しなかったのは、そのあとすぐに停戦協定が成立してしまった、つまり時間切れになってしまったことがひとつ、もうひとつは、関東軍側とは反対に、主戦場ですでに勝利している以上、ここで勝利を収めたという実績を無理矢理作る必要性がなかった、ということでしょう。

では、具体的にどういう点で北部が重要で南部が重要でなかったのかは、私には分かりません。私の目から見れば、どっちにしろこんな草原のただ中の国境線の10kmや15kmたいした問題ではなかろう、としか思えませんが、当時の関係国にとってはそうではなかったのでしょう。

※それにしても、三角山違いというのか、ノモンハンの戦いでの「三角山」と言えばノロ高地の東隣の山のことだと思っていたのですが、それよりはるか南に、別の三角山があるとは思いもしませんでした。勉強不足でした。

それから、モンゴル側が失ったと悔しがる500平方キロという件ですが、地図で大雑把に計った限り、現在ハルハ河の東岸に張りだしたモンゴル領は幅100km以上、面積にすれば1000平方キロ以上ありそうに見えます。現在の中国・モンゴル国境はノモンハン事件の後に決まったものを引き継いだはずですから、やはりモンゴル側が失った領土より「満洲国」側が失った領土の方が広いのではないでしょうか。もしも、このとき決まった国境線が現在の国境線と違うのであれば話は別ですが。秦郁彦の前掲書P232に停戦直前のノモンハン戦場という地図がありますが、この地図は誤解を招きやすいものです。1941年に合意した国境線がホルステン川の北側までしか書いていません。しかも、その手前に書かれている国境線を延長していくと、ほどなく国境線はハルハ河に合流しそうに見えてしまいます。実際はホルステン川の北側も大変な激戦地で、関東軍はモンゴル側の主張する国境線の外に押し出されており、国境線がハルハ河の線に合流するのはずっと先です。

中国戦線で攻めていたのが日本であることは事実ですし、個別の戦闘で勝っていたのが日本であることも事実ですが、日本が戦争に勝っていたわけではありません。詳細はノモンハンの勝敗と直接関係しないので割愛しますが、現に1939年の時点では支那派遣軍の兵力増強が続いていたこと、特に1939年に新設された師団は11個、独立混成旅団が14個ありますが、そのすべてが中国戦線に投入されていることを考えれば、中国戦線から兵力を引き抜けるような状況でなかったことは明らかです。

Kinori様

7月の日本軍善戦の件ですが、これは7月にソ連軍が少なかったためで、ソ連軍が少数だった理由はそれがソ連軍の作戦だったからです。→了解しました。

基本的に、Kinoriさんが書いていらっしゃる「現在の知識水準をまとめれば、ソ連・モンゴル側が損害を多く出して勝利したとするのが妥当でしょう。4月23日に上で例示した私の文章は、引き分け説が主流になりつつあるかのような書き方になっており、まずいものでした。引き分けを唱える者が少数だということがわかるような書き方に改める必要があると考えております。」という見解に同意します。モスクワで停戦交渉が行われた事実を記載することについては異論ありません。戦争の結果を引き分けと記述することには反対します。強いていうなら、「ノモンハン事件を引き分けだとする少数意見も存在する」という程度ではないでしょうか。

それからもう一つ、日本側の戦死者数について、1万8千人という説もあります。戦死7720というのは、当時第6軍軍医部の出した数字ですが、一方で靖国神社が1966年にノモンハン事件戦没者の慰霊祭を行った際に発表した戦没者数が18000人なのです。日本軍は自軍の損害をできるだけ少なく見せたかったはずですが、靖国神社が日本軍の戦没者数を過大に発表したいと考える要因はないこと、靖国神社が戦没者の合祀のために名簿を厚労省(当時厚生省)から提供されていることを考え合わせると、この数字は決して無根拠のものとは言えません。従って、それが定説だとまでは主張しませんが、日本軍の戦死者が1万8千人だったのではないか、という意見も存在する、という程度には触れるべきと思います。--Inti-sol 2006年4月29日 (土) 13:15 (UTC)

祖父は実際に停戦合意を戦場で行っておりますが、日本が完膚なきまでに惨敗したと言っております。戦場の戦死者回収の為ロシア将校と車で廻った際に確認した戦死者はほとんど日本人だったとの事です。また余談ですが、将校の自殺は明け方近くでピストルで行ったとの事です。一晩探して止めようと全員で探しまわったけど遅かったみたいです。今でも残念がっております。関東司令部はエリート思考で考え方が短絡的だったと言っておりますがそのあたりを聞いてみましょうか?

[編集] 続・勝敗の考察について

◆◆

 芋太郎です。現在の署名は[浜の芋太]になっていると思います。少し説明を追加し、新たな疑問点を提示します。

 まず、東郷大使の「アルシャン地区をもっとも重視」という言葉は、もちろん、アルシャン地区がノモンハン地区よりも重要な地区である(たとえば鉱物資源がある)という意味ではありませんし、私もそんなふうには書いておりません。日本軍が苦労して確保したアルシャン地区だからこそ、手放すわけにはいかない。そういう意味で“重要視”したわけです。純粋に領土としての意味では、南北に大差はないと思っております。

 “日本軍の敗北とした著作”を4冊挙げておられますが、これらは、逆に“ソ連軍の勝利”と書いているのでしょうか。もしそうならば、何を根拠にして“ソ連軍の勝利”なのでしょうか。「ソ連・モンゴル側が損害を多く出して勝利した」という、その判定基準は何なのでしょうか。それを明示しなければ、話は進みません。

 それと、“日本軍の勝利とした著作”には、福井雄三『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実』もありますので、漏れを指摘しておきます。

 また、鎌倉英也氏はNHKプロデューサ、半藤一利と星亮一氏と三野正洋氏は作家です。ソ連崩壊後の新資料に基づいて「日本軍の敗北とした」歴史学者はいないのでしょうか?

 半藤一利氏について言えば、『昭和史の論点』(平成12年、文藝春秋)で次のように発言しておられます。

ただ、勝ち負けをいいますと、これは国境紛争で、停戦のとき、向こうの言い分通りに国境を直してますから、負けですね。しかし、戦闘そのものは互角だったと思います。~p.117


 上記の半藤発言ですが、実際には「向こうの言い分通りに国境を直して」いません。それこそ、半藤氏の思い違いというものです。半藤氏には『昭和史 1926-1945』(平凡社)という、2004年版の本もあります。ノモンハン事件を取り上げているそうですから、調べてみます。

 国境紛争のような戦争の勝敗に関して、明白な判定基準が存在するなら話は別ですが、現実に判定が分かれている以上、ウィキペディアとしての判断を下すべきではないと思います。

 どうしても勝敗を書きたいならば、書名を挙げて、それぞれの論点を紹介するべきでしょう。“少数意見”云々も、少なくとも日本の歴史関係者の間でアンケート調査したわけでもなし、“多数意見”が正しいと決まったわけでもありませんから、不用意な記述です。むしろ、読者が判断するための、事実を淡々と記述することこそ百科事典の役割でしょう。

 Inti-solさんによる秦郁彦氏の地図に関する不満には、私も同感です。小さな地図ですから、国境線の全容がわかりません。しかし、これ以上に詳しい地図があるのでしょうか。ございましたら、ぜひ紹介をお願いします。

 また、「靖国神社が1966年にノモンハン事件戦没者の慰霊祭を行った際に発表した戦没者数が18000人なのです」と書かれましたが、情報の出典を明示してください。戦没者数が異様に多いと思います。

 ノモンハンの勝敗を論じるならば、ソ連側の主張していた国境線と、1941年に合意された国境線との違いをきちんと確認することが不可欠です。双方の損害の程度も、きわめて重要です。それらをおざなりにしての議論は、ほとんど無意味に聞こえます。よろしくお願いします。

◆◆

地図については、記事の中でも触れている「ソヴィエト赤軍攻防史II 歴史群像第二次大戦欧州戦史シリーズ15」学研P.13に、停戦ラインそのものではありませんが、ホルステン川より相当北部までの戦闘の状況図(ソ連軍の進撃状況が分かる)が掲載されています。スキャナで読んで自分のホームページにアップしようかとも思いましたが、著作権法上まずいですよね。
戦死者1万8千人のソースですが、1966年に靖国神社がノモンハン事件の慰霊祭を行ったことを報じた翌日の新聞がみんなその数字を挙げているようです。と言っても、私自身がその新聞を読んだわけではありませんが。(図書館で調べることは可能です)私がその事実を知ったのは、五味川純平『ノモンハン 下』(文春文庫)p.252の、以下の記述によってです。
昭和四十一年十月十二日、靖国神社でノモンハン事件戦没者の慰霊祭を行った。翌日の新聞は、その戦没者を一万八千余人と報道した。事件後の軍の数字からみると死者の数が一万人増えている。敗戦を国民の眼から隠蔽することに熱心だった軍には、数字を過小に発表する必要があり得たが、靖国神社が数字を過大に発表する必要はなかったであろう。
前に書いた部分で、靖国神社は厚生省から戦没者名簿の提供を受けている、と書きましたが、厳密に言えば、戦前は靖国神社は陸海軍から直接戦没者名簿を提供されているはずですね。
作家かプロデューサーか歴史学者か、という肩書きの問題は、あまり重要な意味があるとは思えません。そんなことを言ったら、我々本職の歴史学者でもなんでもない者がこの項目の編集作業に参加すること自体がおかしいことになります。それに、三野正洋は作家でしょうか?軍事史研究家というイメージが強いのですが。半藤一利は、広い意味では作家でもあるでしょうが、歴史家(学者ではないとしても)と言っても間違いではないでしょう。--Inti-sol 2006年5月4日 (木) 17:12 (UTC)
一応、お手伝いをば。1966年10月3日の朝日新聞(朝刊の十四頁)に「昭和十四年、ソ満国境で起きたノモンハン事件戦没者一万八千余人の慰霊祭が、二日午前東京・九段の靖国神社で行われた。」とあります。あと、学究的な話をするときには肩書き云々ではなく、その人がその著作を含めてどういった研究をしているのか、が重要です。.... Kanoe 2006年5月5日 (金) 09:13 (UTC)


 Inti-solさん、Kanoeさん、さっそくの情報に感謝します。靖国神社での慰霊祭については、1966年10月の2日説と12日説があるのですね。私も調べてみましょう。

 それと歴史学者云々の件ですが、肩書きよりも内容が重要なことには、私も同意します。“学者”といっても、怪しい人もおられます。ただ今回は、ソ連崩壊後の新資料に基づいて「日本軍の敗北とした」歴史学者が一人もいないなら寂しいなと思っただけのことです。


◆◆ 芋太郎です。[本文]の記述はだいぶん改善されているようです。ところで、現在の記述ですが、次の箇所は、現状では不適切ではありませんか。

靖国神社は1966年10月にノモンハン事件の戦没者慰霊祭を行った際、戦没者数を1万8000人と発表したことがある。靖国神社が旧軍(戦後は厚生省)から戦没者名簿の提供を受けていることから見て、この数字を無根拠なものではないのではないか、とも考えられる。

 私はここ数日、近隣の図書館へ行って、昭和41年12月3~4日の朝日新聞、毎日新聞、読売新聞を調べたのですが、一日一回発行の大阪版のせいか、該当する記事を見つけることはできませんでした。

 Kanoeさんが紹介されれた「1966年10月3日の朝日新聞(朝刊の十四頁)」というのは、どこの版で、実物の新聞紙でしょうか。それとも縮刷版でしょうか。そして、報道したのは朝日新聞だけなのでしょうか。

 念のため、靖国神社に問い合わせたところ、1966年10月2日に行われたのは「ノモンハン会」主催の慰霊祭であり、靖国神社では、その際にノモンハン事件戦没者数の発表を恐らく行っていないだろうとの回答でした。

 厚生省からの資料でも引用するのなら別ですが、朝日新聞の記事だけを根拠にして18,000名もの戦没者を挙げることは、不適切と思います。信頼性に乏しい情報です。

うっかり間違えました。私が調べたのは昭和41年12月の新聞でした。記事がないはずです。正しくは昭和41年10月の新聞でなければなりません。また調べてみます。 芋太郎

お返事遅くなりました、すみません。私が紹介しましたのは朝日新聞の縮刷版です。但し、記事自体は小さなものですし、(東京版の頁ではないのですが)関東のニュースが集まっている頁に見えましたので、大阪版には載っていないのではないでしょうか。また、文面から察するに、戦没者数は靖国神社が発表したものではなく、ノモンハン会あたりが、発表したものなのではないでしょうか。何れにせよ、確かなことが分からない以上、「靖国神社は1966年10月にノモンハン事件の戦没者慰霊祭を行った際、戦没者数を1万8000人と発表したことがある。」は、「1966年10月にノモンハン事件の戦没者慰霊祭を行われたが」、朝日新聞が「戦没者数を1万8000人と発表したことがある」、と推論を含めずに書いておくのが良いのではないかと思います。
>ソ連崩壊後の新資料に基づいて「日本軍の敗北とした」歴史学者が一人もいないなら寂しいなと思っただけのことです
「新資料に基づいて「日本軍の敗北とした」歴史学者」が出てこない(論文誌をあさったわけではないですが)というのは、要するに、「ソ連崩壊後の新資料」はソ連の損害数についての情報であり、この(新しかろうが古かろうが、多かろうが少なかろうが)「損害数」が従来の「日本軍の敗北」説の裏づけではなかった、ということだと思います(学究的には「勝敗」をつけること自体それほど意味の無いことだと思うのですが)。... Kanoe 2006年5月19日 (金) 04:56 (UTC)
図書館に調べに行く時間がとれません。とりあえず本文を訂正しておきました。--Inti-sol 2006年5月22日 (月) 13:03 (UTC)

[編集] 日ソとモンゴルの研究者による共同調査について

内容(ソ連軍の損害の実相)が前節と重複しており、しかもなぜかその数字が微妙に前節と食い違っているので、重複する内容を削除しました。--Inti-sol 2006年3月5日 (日) 02:55 (UTC)

[編集] ソ連軍損害の件

ソ連軍の損害で戦車800両と書く方がおりますが、どうも数字が合わない気がします。8月攻勢時でソ連軍約6個師団では、戦車800両は過大と思います。旧ソ連の資料が続々と出てくる関係で、変動はあるとは思いますが、確認を願います。--Los688 2005年9月25日 (日) 09:30 (UTC)

とりあえず、クックスの『ノモンハン』には、8月攻勢でソ連軍が用意した戦車が498とあります。800の損害を出すのは難しそうです。Kinori 2005年9月25日 (日) 13:59 (UTC)
今回の問題となっている箇所の数値の出典は、Googleによれば恐らく、『ノモンハン事件の真相と戦果』という本がソースとなっている様です。これによりますと、p51に以下の様な記述があります。「*兵員の損害数 日本軍、一万七千四〇五名 ソ連軍、二万五千六百五五名以上 *航空隊損害数 日本側 未帰還 七七機 大破 百〇二 ソ連側一、六七三機(内、高射砲で百八○機、戦車で二十六機 歩兵が三機撃墜) *損害戦車数 日本側 二十九台 ソ連側 八〇〇台以上」 しかし、この記載の前後にはその一次資料は提示されていません。また、巻末の参考文献にも、「1990年代から」「利用が可能となった」「ソ連軍資料」の名前は提示されていません。故に、この損害数をそのまま記載するには些か問題があると思います。少なくともアカデミックではありません。但し、この数字は五月からの値の様です。Kanoe 2005年9月26日 (月) 14:26 (UTC)
『ノモンハン事件の真相と戦果』を見ました。指摘通り、この本によるものだと思います。ソ連側死傷者数はソ連側資料で多いほうをとり、日本側死傷数は日本側資料で少ないほうをとったものです。この辺で既にどうかなあと思いますが、許せる数字だと思います。しかし戦車などその他の箇所は日本軍の戦果報告を足し合わせたもので、信用できません。「ソ連側の損害が意外に多かったことが判明→ということは今まで誇大と言われてきた日本の戦果報告はみな真実(そしてソ連側の戦果報告は嘘)→全部足すとこんなに」という構成です。日本は強くソ連は弱いという基準で資料の嘘を判定しているので、こうもなるのでしょう。Kinori 2005年11月9日 (水) 07:23 (UTC)

飛行機1600機戦車800両はあり得ないので、その他の部分も併せて直しました。--Inti-sol 2006年3月4日 (土) 17:15 (UTC)

[編集] 張鼓峰事件

張鼓峰の日本語の読み方教えていただけませんか。ドイツ語のWikipediaにはChangkufengと書いてあります。でも、ヘボン式ではないと思っております。--203.205.193.42 2006年2月16日 (木) 00:20 (UTC)

「ちょうこほう」です。記事は張鼓峰事件にあります。
どうもありがとうございました。今度、聞く前に自分で探します。--ペーター 2006年2月16日 (木) 09:55 (UTC)

[編集] 名称について

「ノモンハン事件」は「ノモンハン事変」とも呼ばれ(教科書でも使われ)、後者の方が戦争を表すのに適切だと考えますが、移動してはいかがでしょうか?  2005年11月6日 (日) 13:24 (UTC)

もっとも重要と思われる戦史叢書とクックス『ノモンハン』、参戦者による辻政信『ノモンハン』、扇広『私評ノモンハン』、聞き取りによる伊藤『静かなノモンハン』、最近出た一般向けの半藤『ノモンハンの夏』、星『遥かなるノモンハン』を見ましたが、いずれも「事件」でした。私はすべての関連書籍に目を通したわけではありませんし、当時の呼称の状況についても知りませんが、戦史叢書に引用される文書の中には「事件処理要綱」「事件処理」「国境事件」などという言葉が散見され、「事変」はみあたりません。Kinori 2005年11月6日 (日) 14:13 (UTC)
昔の検定教科書では「ノモンハン事変」も使われていたようですが、現在はほとんど「ノモンハン事件」になっているようです。かなり恣意的な呼称ですが、しょうがないですかね。ただし「ハルハ河戦争」の表記も「日本史B」で一社あるようです。 2005年11月7日 (月) 12:57 (UTC)
「事変」とは、不戦条約違反を糊塗するため「戦争」のかわりに作り出した語だとどこかで読んだ記憶があります。ウィキペディアとしては多勢に従うしかないわけですが、それを抜きにしても積極的に使いたい語ではないです。戦場地理的にはハルハ河戦争がいいのでしょうが、全然普及してませんね。教科書で使うところがあるとは驚きです。Kinori 2005年11月9日 (水) 07:23 (UTC)
確か「戦争」の定義には国際法宣戦布告の存在が必要条件だった筈です。でないと、国境上の小さな小競り合いまで全部戦争になってしまう可能性があるからです。由来はどうあれ、それを一緒くたにしてしまったら戦時国際法の意味が無くなってしまいます。--水野白楓 2006年6月3日 (土) 02:30 (UTC)
戦争の定義は、宣戦布告の有無とはあまり関係がないと思われます。ベトナム戦争、朝鮮戦争、数次に渡る中東戦争などでは、宣戦布告が行われている例はあまりないのではないでしょうか。--Inti-sol 2006年6月8日 (木) 13:16 (UTC)
Inti-solさんの説明に補足します。戦時国際法は戦争の惨禍を減らすための諸制限ですから、国境の小さな紛争に適用しないというのは、そのような紛争の惨禍を増すということになり、理にかないません。この「事件」でも当時国は戦時国際法の適用を否定しようとはせず、なればこそ捕虜交換が実現したのです。宣戦布告に関する趣旨は、「戦争するときには宣戦布告せよ。しないで戦争するのは悪」です。「しないで戦争すると戦争にならない」という性格のものではありません。昨今の日本では戦時国際法を非人道行為の許可条件として読もうとする人が多いので、水野白楓さんの誤解も無理のないことではありますが、小紛争に戦時国際法を適用するのは意味があることです。Kinori 2006年6月9日 (金) 00:58 (UTC)

[編集] 九七戦機数訂正他

戦闘機中隊の定数は12機ですので、15個中隊135機というのは1中隊9機の爆撃機中隊の定数ではないでしょうか。損失数110機以上というのも具体的に知られている数字からすれば内訳不詳のように思われます。また、”陸軍戦闘機隊は壊滅した”というのは主観的な表現であり、やはり”過言”でしょう。特定の主義主張を感じさせます。無論、軽視できる損害ではないですが、本文に挙げたとおり停戦時に可動機で105機が残存しており、またノモンハン直後から九五式戦装備戦隊も順次九七戦に機種改変されていますし、太平洋戦争開戦時の陸軍戦闘機中隊数は55中隊を数え、その全てが九七戦もしくは一式戦に機種改変を完了済みですので。Das Boot 2006年6月12日 (月) 20:18 (UTC)


戦闘機1個中隊の機数は時期により変わっており、1個中隊12機というのは太平洋戦争期の定数だと思いましたが違いましたでしょうか。仮にDas Bootさんの記述に従って152機が失われ105機が残ったとしても、257機中152機の喪失(実際には残った105機というのは、ノモンハン戦中に製造された機体も加わっているはずですから、一度に存在した機数としては257機より少なくなるはずです)というのは、充分「壊滅」と表現するに足る損害だと思われます。

九七式戦はその後も製造が続いていますから、ノモンハンの後九五式戦装備戦隊が順次九七戦に機種改変されたというのは当たり前の話でしょう。といいますか、太平洋戦争の時点で複葉布張りの九五式戦が戦力として残っていたら大変です。もっとも、その時には九七式戦だって旧式化していたし、それにも関わらず新型の一式戦は、わずか二個戦隊しか実戦配備されていなかったという現実があります。また、一番の問題は機体の数ではなく、優秀なパイロットの多くがノモンハンで戦死してしまった点です。壊滅という記述の根拠としたのは

http://www.general-support.co.jp/column/columun10.html

です。以下上記サイトからの引用になりますが

なにしろノモンハン事変勃発当時、日本陸軍の戦闘機部隊は10個戦隊(第5戦隊や第13戦隊などの練習部隊を含む。これらの部隊や第4戦隊は1個中隊しか戦闘機を保有していないし第1戦隊や第24戦隊、第59戦隊は2個中隊編成である。)と1個独立中隊で23個中隊(97戦15、95戦8:当時は1個中隊約9機だったので搭乗員の概数は約200名)だったがこれらのうち20個中隊(97戦14、95戦6)がノモンハンへ投入され100名近い戦闘機搭乗員を失ってしまったのだから。
特に戦闘機指揮官の損耗は激しく戦死者だけで少佐1、大尉8、中尉10に及ぶ。
「ふうん、戦闘機部隊じゃ佐官の戦死者は1名だけか。」と思ってはいけない。
投入された7個戦隊(1、9、11、24、33、59、64)のうち33戦隊が戦場にいたのは16日、59戦隊は6日、9戦隊は3日だけなので戦い続けた4個戦隊に限れば11戦隊を除く3個戦隊全てで戦隊長が撃墜され負傷しているのだ。
特に第1戦隊では7月12日に戦隊長の加藤中佐が負傷し29日には後任の原田少佐が初陣で戦死、最終的には全中隊長と全将校が死傷するに至った。
損害が多発したのは第1戦隊ばかりではない。
歴戦4個戦隊(計11個中隊)でみれば中隊長11名中9名が死傷しその後任中隊長や中隊長代理達も続いて軒並み死傷している。
ノモンハン事変での指揮官大量喪失がその後の日本陸軍戦闘機隊に大きな影響を及ぼした事は言うまでもない。
(中略)
軍事史学128号17頁によれば8月末までの戦闘機隊の人員損耗は「当時戦場にあった戦闘機操縦者のほぼ3/4にあたる76名」としており全期間での航空部隊の損害を戦死141名、負傷89名、中隊長以上の戦死傷17名としている。
更に航空情報別冊「日本陸軍戦闘機隊」によれば9月1日以降、少なくとも17名が戦死しており戦史叢書によれば9月1日以降の戦闘機損耗は24機(95戦6,97戦18)なので戦闘機搭乗員損耗は最終的に76+17=93名以上と考えられる。
本文の第1回でも書いたがノモンハン航空戦勃発時、日本陸軍の戦闘機部隊は合計23個中隊(1個中隊9機)で搭乗員概数は約200名だった。
その約半分が4ヶ月の航空戦で消えてしまったのである。
中隊長クラスの指揮官損耗は半分どころではなく遙かに多い。

--Inti-sol 2006年6月17日 (土) 01:51 (UTC)

 正直なところ、おいおい、ゲームメーカーのデザイナーズノートがソースかい、という感じですけれど。(汗

 まず定数ですが、陸軍の戦闘機中隊は創設当初から1中隊12機です。(一時期14機) 提示のページにも”当時は1個中隊約9機”とありますが、これはあくまで装備機数であって、”定数”を意味するものではありません。ノモンハン当時も当然”定数”は12機です。また、稼働数は装備機よりもさらに少なくなりますから、そもそも実数ではなく”定数”で戦力を測るのは不適当だと考えています。大幅に編集するのも面倒でしたので正規の定数計算で180機としましたが、それ故、但し書きを付けました。

 停戦時に105機(1,11,24,59,64戦隊)を配備していたということは2個中隊戦隊2、3個中隊戦隊3計13個中隊で中隊当たり8機であり、開戦時に準じた戦力を保っていたと言えます。加えて九五戦2個戦隊53機がありました。これは、”壊滅”という表現にはなじまないと考えますが?

>太平洋戦争の時点で複葉布張りの九五式戦が戦力として残っていたら大変です。

 その通りです。ですから、機材の整備に限っていっても2年後の太平洋戦争に尾を引いたとは言えないでしょうし、さらに戦闘機55個中隊を保持できるだけのパイロットの養成もそれまでに行われていたと言うことです。

 提示のゲーム会社のコラムでは戦闘機パイロットの数を機体の数から逆算して約200名として、さらに戦死と戦傷の区別をつけずにその半分の損耗といういいかげんな計算をしているようですが、戦闘機パイロットの死亡は本文に挙げたとおり53名というのが通説です。さらに、当時は昭和11年からの航空軍拡の時期に当たっており、昭和18年までに陸軍全体で140個中隊の整備をめざしていました。昭和13年に陸士から航空士官学校を分離、また、昭和8年に採用の始まった少年航空兵を大幅増員しています。ちょうど、ノモンハンが終わった頃にそれらの大増員されたパイロット達が部隊配属されていきます。ノモンハンの損失で増設された部隊の中堅となるべき下級~中級将校が失われたという痛手はあるものの、このような状況を”壊滅”とまで表現するのが果たしてふさわしいのでしょうか?

 いずれにしても、百科事典と銘打つ物に”壊滅したといって過言ではない”などという主観を交えた表現を使うのは適当であるとは思いません。 Das Boot 2006年6月19日 (月) 09:32 (UTC)

>正直なところ、おいおい、ゲームメーカーのデザイナーズノートがソースかい、という感じですけれど。(汗

私がこのサイトをソースとして採用したのは、おおもととなったデータの出典(航空情報別冊「日本陸軍戦闘機隊」と「軍事史学128号」17頁)が明記されているからです。それから、複葉布張りの九五式戦が2個戦隊53機というのは、失礼ながらノモンハン事件の時点においてさえも、「戦力」と呼ぶに足るような代物ではなかったと思われます。

ノモンハンの後でどれだけ搭乗員が大量養成されたとしても、97式戦がどれだけ増備されたとしても、それは「後の話」であって、ノモンハン事件が終結した時点では存在しなかったものです。(搭乗員の一部は存在しましたが、養成を終えて部隊配備されたばかりの搭乗員がただちに実戦の役に立つものではない)仮にDas Bootさんのおっしゃる数字を採用するとして、ノモンハン事件が終結した時点では、97式戦が105機と複葉布張りの95式戦が53機しか陸軍の手元には残っていなかったという状況は、「壊滅的な打撃」と表現するに足るのではないでしょうか。また、「壊滅」という用語が百科事典にふさわしくない、とも思われません。まあ、どうしても壊滅がダメなら、「陸軍戦闘機隊は大打撃を受けた」とか、「大損害を被った」とかでもいいですけれど。 --Inti-sol 2006年6月19日 (月) 15:16 (UTC)

 既に無限ループ化しているようなので、これ以上は差し控えますが、誤解があるようなのでその指摘だけ2点ほど。

 まず、九七戦105機、九五戦53機というのは、あくまでノモンハンに展開している部隊のみの機数です。当時、その他にも4戦隊(九五戦/内地)、5戦隊(九七戦/内地)、13戦隊(九五戦/内地)、77戦隊(九五戦/中支)、独飛84(九七戦/南支)、独飛10(九七戦/中支)といった”壊滅した”はずの陸軍戦闘機隊が存在しています。

 次いで、九五戦は速度こそ劣るものの、格闘戦性能は九七戦と同等です。ノモンハンでは5機の損失と引き替えに48機を撃墜したとされます。これは日本側の数字ですので戦果は割り引いてみるとしても、なかなか落とせないが落とされもしなかった、とは言えるでしょう。使い物にならないようなシロモノなら、地上軍と比べて桁違いに兵站整備の大変な飛行機をわざわざ持っていきはしませんよ。Das Boot 2006年6月20日 (火) 08:58 (UTC)


95式戦はともかく、97式戦はほとんどの部隊がノモンハンに投入されているので、ノモンハンに展開している部隊のみの機数と、陸軍がもつ全機数は、大差がなかったのではないでしょうか。

独飛84は独立中隊、第5戦隊もノモンハン当時戦闘配備についていたのは1個中隊だけで、残り2個中隊は教育訓練中だったはずです(どちらも隊の創設、あるいは機種転換はノモンハン戦の最中)から、機数はそれぞれ約10機程度、併せて20機程度にしかならないのではありませんか。現に、97式戦部隊が払底してしまったから、最後には95式戦が増援に出てこざるを得なかったわけです。

それから、95式戦が戦力と呼ぶに足るような代物ではなかったというのは、当時の日本陸軍が主観でどう考えていたか、という問題ではありません。陸軍の主観としては、使い物になると思ったから出したのでしょうが(確かに、相手が同じ複葉のI-15なら使い物になったでしょうね、割れ鍋に綴じ蓋みたいな話ですが)、客観的評価として、1939年という時期に複葉戦闘機が戦力と呼び得るような代物だったのか、ということです。「九五戦は速度こそ劣るものの、格闘戦性能は九七戦と同等」とおっしゃるなら、ソッピースキャメル戦闘機は、速度は論外ですが格闘性能は九七式戦をはるかに上回っていたと思われますので、きっと立派に戦力となったことでしょう。--Inti-sol 2006年6月20日 (火) 13:06 (UTC)

と、いうことで、私からの結論&提案は、「壊滅」が不適切ということなら、「陸軍戦闘機隊は大打撃を受けた」または「大損害を被った」という表現で記述したいと思いますが、どうでしょう。--Inti-sol 2006年6月20日 (火) 13:31 (UTC)

 何故に一次大戦の150馬力しかない戦闘機(しかも不安定だったことで有名な)を引き合いに持ち出してくるのでしょうか、恥ずかしくないですか?  どうも頭から九五戦を馬鹿にしているようですが、単葉へ移行する端境期の機体ですから一葉半という形状から速度は劣るものの、九七戦よりも大馬力の発動機を積んでおり、上昇力は九五戦の方が上だったりしますがそういったことを承知してるのでしょうか。こちらとしては、九五戦の格闘戦性能相当を前提として九七戦の審査が行われ、また模擬空戦等の比較や日華事変以来のソ連製戦闘機との実戦での実績を勘案した上での記述だったのですが。Das Boot 2006年6月20日 (火) 18:42 (UTC)

何故第一次大戦の戦闘機をもつ出すかと言えば、格闘戦の旋回性能だけを突き詰めれば、結局第一次大戦の戦闘機がもっとも優れた旋回性能を示すからです。ソッピース・キャメルの機体の不安定さというのは意図的なもので、それと引き替えに優れた格闘性能を得ることができたのです。おそらく、優秀な搭乗員の操縦するソッピース・キャメルを撃墜するのは、97式戦といえども至難の業でしょう。しかも、実は武装はソッピース・キャメルも97式戦も同等に近かったりします。(7.7mm機関銃が2挺)

にもかかわらず、ソッピース・キャメルを1939年の時点で「使い物になる戦闘機」とは決して言わないわけです。別に九五式戦という戦闘機そのものをバカにしているわけではありません。第一次大戦の時点でソッピース・キャメルが世界有数の優れた戦闘機だったのと同様に、九五式戦も登場した1935年の時点では、世界的に見ても複葉戦闘機はまだまだ主力戦闘機として頑張っていましたから、少なくとも時代遅れの戦闘機ではなかったでしょう。しかしそれから4年後となると話は別です。「一葉半」などと言ってみたところで、九五式戦が複葉機であるという現実は変わりません。両翼間に空気抵抗のカタマリである支柱と張線が張り巡らされ、しかも翼は大部分が布張りです。

それはともかく、本論の部分、つまり、

「壊滅」が不適切ということなら、「陸軍戦闘機隊は大打撃を受けた」または「大損害を被った」という表現で記述したいと思いますが、どうでしょう。

これについてはいかがでしょう。--Inti-sol 2006年6月21日 (水) 11:40 (UTC)

 ”優秀な搭乗員の操縦するソッピース・キャメルを撃墜するのは、97式戦といえども至難の業”だそうですが、初等練習機程度の速度しかでない機を撃墜するのが”至難の業”とまで言うに足る具体的証拠を示してからにして下さい。どうやら、不安定=旋回性能=格闘戦性能と短絡的に捉えているようですが、格闘戦性能というのは旋回性能のみによるものではなく、命中率に大きく影響する安定性もまた重要なのですよ。特に日本陸軍においては横方向の安定性というのが伝統的に重視され、その射撃精度の高さから”大空の狙撃兵”と称された九七戦のみならず九五戦またしかりです。

 なお、「陸軍戦闘機隊は大打撃を受けた」または「大損害を被った」というのは一方的に損害を被った場合の表現ですから、近年明らかになったソ連側の資料からしてもソ連軍の被害の方が実際に甚大だった事実に鑑み適当な表現とは思いません。しかし、どうしてもそうしたいのなら邪魔立てはしませんからご自由にどうぞ。Das Boot 2006年6月21日 (水) 15:25 (UTC)

なぜ初等練習機程度の速度しかでない機を撃墜するのが至難の業か。単純に言って、97式戦が速すぎるからです。たとえば、史上初のジェット戦闘機、Me262にとって、連合軍の重爆撃機を撃墜することはかなり困難なことでした。あまりに速度が違うために照準を合わせること自体が難しかったからです。重爆はマトとして巨大な上に、急旋回や宙返りなどをするわけでもないにもかかわらず、です。どれほど安定性が高くて命中率の高い機体であっても、敵機を照準器に捉えられなかったら撃墜はできません。

格闘戦がどのようなものかはともかくとして、事実としてソッピース・キャメルは第一次大戦で多くのエースパイロットを輩出した機体であり、多くの熟練パイロットに、その格闘性能が愛されたことは歴然たる事実です。もちろん、だからといって、ソッピース・キャメル(に代表される第一次大戦期の戦闘機)が1939年当時の戦闘機として、使い物になるような代物でなかったこともまた確かです。

> しかし、どうしてもそうしたいのなら邪魔立てはしませんからご自由にどうぞ。

了解しました。その点が確認できれば、あとはいくら議論したところで結論が出るとも思えませんので、これにて終了としましょう。--Inti-sol 2006年6月22日 (木) 11:37 (UTC)

 ソッピース・キャメルの次はMe262ですか? 生半可な知識をひけらかして自爆しまくっているようにしか見えませんが。

 Me262の爆撃機に対する速度云々の話は、当時のレシプロ機の対重爆撃機戦法は防御火網が薄く被弾率の低い前方からの攻撃が基本だったが、レシプロ機より200km/h近く高速のMe262でそれをやると爆撃機との相対速度が秒速約350mにもなり(音速を軽く越える)射撃時間が一瞬に限られたという話ですよ。そのため、Me262による最初の戦闘航空団である第7戦闘航空団(1944年11月~)は、前方攻撃ではなく後方からの近接攻撃法を案出してますね。Das Boot 2006年6月24日 (土) 05:50 (UTC)

Das Bootさんの意見に対して反論がないこともないのですが、ここは、単に議論を行う場ではなく、編集のための議論を行う場だと私は解しています。本題であるノモンハンの航空戦についての議論が決着した以上、ここで更に議論を続けるのは不適当でしょう。--Inti-sol 2006年6月25日 (日) 04:15 (UTC)

[編集] ゲオルギー・ジューコフの内容との相違について

ゲオルギー・ジューコフでは、ゲオルギー・ジューコフが反撃を開始したのは、「ジューコフは、十分な戦力を準備し、1939年8月15日より関東軍に対する反撃を指揮した。」と記載されています。
しかし、本文では、8月15日という明確な日付では表現されておりません、どうしてでしょうか。
また、「最終的に戦車180台、航空機450機、兵員60,000名が投入されることとなった。」との記述もノモンハン事件との相違があります。どちらが正しいのでしょうか。


ジューコフの項の編集にはまったく関与していませんが、手元にある文献では、すべてソ連軍の大攻勢は8月20日の早朝からとなっています。ジューコフの回想録そのものは未読ですが、御田重宝の「人間の記録 ノモンハン戦 壊滅編」にはその内容が引用されており、そこでもやはり8月20日に総攻撃を開始した、と書かれています。ロシアの発掘資料に基づいて書かれたマクシム・コロミーエツの「ノモンハン戦車戦」(大日本絵画)でも同じです。従って、8月15日から反撃を開始、というのは誤りだと思われます。なお、本文中には、「8月20日、爆撃と砲撃の後にソ連軍の前進が始まると」と正しく記載されています。それから、兵力については資料によって差異があります。私は学研の本に準拠して記載しましたが、航空機の数が450機か550機かというのは、誤差の範囲という気がします。それから、手元の資料ではソ連軍の投入した兵員の数はわかりませんでしたが、投入した部隊の数から逆算して兵力を推測することは可能です。兵員6万人というのは、あり得る数字とは思います。ただ、戦車180両というのはおかしいです。もっと多いことは確実。--Inti-sol 2006年9月5日 (火) 13:49 (UTC)
ジューコフの項を編集しました。それで気が付いたのですが、ジューコフの項は英語版が間違っていて、それをそのまま日本語にしているから日本版も間違っているようです。--Inti-sol 2006年9月5日 (火) 13:56 (UTC)

[編集] 「ノモンハン」の由来と記事の修正について

「ノモンハン」の由来については、参考文献にも列挙もしくは収録されている田中克彦氏による「ノモンハン・ブルド・オボー」についての考証を参考として、定義部の記述を修正。

  • (旧)ノモンハンは、戦場近くのモンゴル人小部落で、満州国側にある。大興安嶺の西側モンゴル草原に属し、現在の内モンゴル自治区北部フルンベール盟の中心都市ハイラル南方、ハルハ河東方にあった。

        ↓ ↓ ↓

オボーについてはまだ未執筆だが、日本において徳川幕府が整備した一里塚に類するものと理解していただきたい。「ノモンハン」がこのオボーに由来する以上、概要部の

  • 満州国の北西部、モンゴル人民共和国の東部の国境は、モンゴル独立以来国境線が不明瞭で係争地になっていた。

という記述も修正の必要があると思われます。念のため、

  • 田中克彦氏による「ノモンハン・ブルド・オボー」の考証が誤りであることを立証した論考
  • ノモンハンが、「満洲国側にある」「戦場近くのモンゴル人小部落」として実在していたことを示す一次資料

について何かお手元にある方があれば、ご紹介いただけると幸いです。--Dalaibaatur 2006年7月24日 (月) 14:47 (UTC)

Dalibaaturさんが参考にしたという田中克彦さんの考証は、何ですか。シーシキン『ノモンハン』ではありませんよね。Kinori 2006年7月24日 (月) 23:29 (UTC)
ノモンハン・ハルハ河戦争国際学術シンポジウム編『ノモンハン・ハルハ河戦争』原書房, 1986.
田中克彦『モンゴル : 民族と自由』岩波書店 , 1992.
考証は上記2冊でわりと詳しく述べられています。シーシキンの著作に付された訳者解説でも、結論のみ同趣旨が繰り返されています。--Dalaibaatur 2006年7月25日 (火) 03:52 (UTC)
そうでしたか。後で読んでみます。集落ではないということは他の人の解説にもでてくることですので、問題ない修正だと思います。が、シーシキン本で田中克彦は、国境不明瞭と書き、ノモンハンのオボーには宗教的な由来があるのではないかとしています。清朝が設置した境界標だという話には言及しません。シーシキン本の解説の方が後から書かれたものですが、結論は違うということです。考えを変えたのか、自説であっても推測の比重が高いと判断されたのかはわかりませんが。ウィキペディアにおいても、境界標と断定するのはやめたほうがよいのではないでしょうか。Kinori 2006年7月25日 (火) 23:35 (UTC)
私の手元にあるシーシキン本(2006年1月7日版)の「この本を手にする読者のために」(pp.ii-xii)と「あとがき」(pp.185-200)には、田中氏が「国境不明瞭と書」いている部分は見当たりません。田中氏自身による「国境不明瞭」という表現が、お手元の版で出現しているのは何ページであるのか教えてください。私が修正した文面が「清朝が設置した境界標」と取られかねない表現になっていたので修正しておきましたが、田中氏自身はオボー全般について「いつだれが設置したともなくずっとその場所にある」というものであることを紹介しています。オボーが「時には牧地の境界標識の役割を果たすこともある」という記述もあります(p.vii)。私の手元のシーシキン本には、田中氏が自身の判断として「国境不明瞭」という表現を用いている箇所は見当たらないので、少なくとも2006年1月7日初版の田中訳シーシキン本と以前の著作の間には矛盾はないと考えます。--Dalaibaatur 2006年7月27日 (木) 01:09 (UTC)
私が見ているのも初版です。「国境不明瞭」という文字自体はありません。が、ivからvページの説明は、国境不明瞭な係争地と読むよりほかにないと思います。Kinori 2006年7月27日 (木) 03:37 (UTC)
「シーシキン本で田中克彦は、国境不明瞭と書き」と述べられたのは撤回されるのですか?ならばKinori さんの「シーシキン本の解説の方が後から書かれたものですが、結論は違う」および「考えを変えた」、「自説であっても推測の比重が高いと判断された」という各節には、田中氏自身のテキストによる根拠はないことになります。
「ivからvページの説明は、国境不明瞭な係争地と読むよりほかにない」というご感想ですが、田中氏の「この本を手にする読者のために」(pp.ii-xii)と「あとがき」には、上引のシンポジウムの記録や『モンゴル:民族と自由』で見かけた語句やいいまわしなどがソックリ流用されている部分が多数あるので、私自身は、Kinori さんのご感想とはまったく逆に、私は「あいかわらず田中節は健在」という印象を持っています。ぜひ上引のシンポジウムの記録や『モンゴル:民族と自由』での考証もごらんください。--Dalaibaatur 2006年7月27日 (木) 05:08 (UTC)
撤回しません。Dalaibaaturさんは「『国境不明瞭』と書き」、と誤解されたようですから、もっと良い書き方ができればよいとは思います。しかしどう書けばよいかというと、思いつきません。その箇所では境界不明瞭な地帯として説明しており、真の境界はノモンハンであるいうほのめかしはありません。他の箇所にも「不明瞭」と矛盾するほのめかしはありません。3冊の本を手にした人が語句やいいまわしなどを探ると結論が逆になるような文章を、田中克彦が書いたとは私には考えられないのです。Dalaibaaturさんが考える「田中節」がなんなのかは私にはわかりませんが、私がみる田中克彦は達意の達人です。
通説と自説を分けることは、学者にとって身に染み付いた習慣です。一般の人に紹介するときに、未だ確定的でない自説を確定した事実であるかのように書いたりしないのは、その延長です。シーシキン本は田中克彦にとって他人の論文・著作ですから、その解説ではまず通説をふみ、自説を控えたのだと思います。その態度は、ウィキペディアの参考にもなるでしょう。Kinori 2006年7月29日 (土) 07:56 (UTC)
付け加えておきますと、私の意見は田中克彦の説を載せるなということではありません。それだけにするのはどうかということです。Kinori 2006年7月30日 (日) 07:59 (UTC)
そういうことでしたら、シンポジウムの記録では、北川四郎「ノモンハン戦の国境認識」、牛島充康「同解説」(pp.34-43)も、以下に引用した田中節と同趣旨をのべています。--Dalaibaatur 2006年8月1日 (火) 01:34 (UTC)
  1. 「国境」は、二カ国間の合意があって初めて確定します。従来、問題にならなかった地点でも、一方がある日突然ごり押しを始めれば、その時点からその地は「係争地」となります。
  2. 田中氏は一連の著作で、日満側と、ソ・モ側のそれぞれの主張の根拠を過不足なく紹介しています。これは一連の著作において、解説者としては当然の立場ですが、田中氏自身が「国境不明瞭」と主張していたかどうかとはまったく別の問題です。
  3. 田中氏は、一連の著作で、モンゴル側が主張する境界線上に配置され、この事件の名称の由来ともなったノモンハン・ブルド・オボーについて、清代から一貫して、このオボーが内蒙古外蒙古の行政上の境界となっていたことを指摘しています。【清代から一貫して、このオボーが内蒙古外蒙古の行政上の境界となっていたこと】については、田中氏は【確定した事実】としてくりかえし関連の著作で提示しています。
  4. 「シーシキン本で田中克彦は、国境不明瞭と書き」という一節は、田中氏自身のテキストによる根拠のない、Kinori さんの解釈に過ぎません。田中氏自身のテキストとしてはまったく存在しない「国境不明瞭」という語句について、「田中克彦は、〜と書き」と描写することになぜ固執されるのか理解できません。Kinori さんが田中氏の一連の記述を「私は○○と解釈する」と述べられるのであれば、他人がとやかくいうことではありませんが、書いてもいないことを〜と書きと描写するのは、田中氏の主張をかってにつくってしまうことになるので、このような表現にはまったく賛成できません。
  5. リクエストにお応えし、以下、「田中節」のサンプルです。
バルガ八旗には、旧バルガ八旗と新バルガ八旗があり、前者は雍正一〇年(一七三二年)に編成され、後者は雍正十二年(一七三四年)に外蒙古から移住してきた人々を編成したものである。新バルガ移住の年に雍正帝の命により、理藩院尚書ジャグドンがハルハとバルガの境界を確定し、境界標識にオボーを設置した。(モンゴル科学アカデミー歴史研究所編著、田中克彦監修、二木博史ほか訳『モンゴル史』(1)、恒文社1988, 第六章訳注48, pp.543-544)。この文面の場合、田中氏は監修者であって、かならずしもご本人の文章とはいえませんが、下記では、きわめて明瞭に氏の見解を提示しています。
ノモンハン・ブルド・オボーを行政上の境界線とする伝統は、清朝時代に作成された地図にも示されており、本書にもしばしば登場する、日本から鹵獲した地図もまた、その系統のものであった。それが「ハルハ河」の線に変更になったのは、日本側が一方的に、あるいは当事の関東軍の用語を用いれば、不明確な国境線については「自主的に認定指示」した結果であった。(田中克彦「日本の読者のために」、o.プレブ編『ハルハ河会戦参戦兵士たちの回想』恒文社, 1984, p.156)。--Dalaibaatur 2006年7月31日 (月) 19:07 (UTC)
国際シンポジウムの記録に収録されている北川四郎氏の考証にもとづいて、三カ所あった「国境不明瞭」という記述を改めました。--Dalaibaatur 2006年8月3日 (水) 03:04 (UTC)

いまだ勉強中ではありますが、あまりに待たせすぎるのは申し訳ないので、今の段階での考えをもってお返事します。田中克彦が一貫してモンゴル主張の国境線が正しいと主張してきたことは了解しました。しかし変わらず私が不審とするのは、 シーシキン本でなぜその主張を述べず、国境問題を何ページも論じてむしろ反対と受け取られるような文章にしたのか、という点です。そこには、未だ確定しきっていない事情があるのだろうと考えます。

北川四郎には1979年出版の『ノモンハン 元満州国外交官の証言』があり、その中でモンゴル主張の国境線が正しく、日本軍がハルハ川に動かそうとしたのだと述べています。その事実が全然受けいれられていないというのが当時の北川の認識であり、不満です。

さてそれから年月がたった現在において、ソ連・モンゴル側主張の国境が正しかった、ということで話はまとまっているのでしょうか。1986年刊の扇広『私評ノモンハン』が、地元では境界が内陸に引かれていたとしています。最近では半藤一利『ノモンハンの夏』が、国境線の正当性にまでは踏み込まないものの、昭和9年に日本軍は内陸を国境としていたことを記しており、近い印象を与えます。しかし他の著作では基本的に『戦史叢書』の見方が踏襲されているようです。

シンポジウムで田中克彦と北川四郎が自説を繰り返したことはわかりました。その説は自分が読んでも説得力があるものですし、ウィキペディアに掲載されるべきであると思います。しかしノモンハン戦の研究者に確定事実として受け入れられたかを量ると、どうもそうではないようです。その状況でその説だけを記すというのはどうかというのが私の疑問なのです。Kinori 2006年8月5日 (土) 02:59 (UTC)

係争地域について、当事の日本側が「国境線が曖昧だった」と認識していたことは事実として、モンゴル側が主張した国境が、1734年に成立した行政境界であるか、この境界が成立後どのように機能していたかどうかは事実(または事実誤認)の問題であり、史料的根拠にもとづき確認できる事柄です。実在するか否か、という問題であって、「正しい」とか「正しくない」という道徳的価値判断は不要の問題です。ゆえに、私の修正でも、「正しい」「正しくない」という類いの道徳的価値判断には踏み込まず、
  1. ノムンハーネイ・ブルド・オボーその他を境界とする行政境界が1734年以来くっきりと明瞭に存在してきたこと。
  2. 日満側が、この行政境界にかえてハルハ河を一方的に国境化しようとしたことがこの地を係争地とした。
という事実の指摘にとどめています。
【ノモンハン戦の研究者に確定事実として受け入れられたかを量ると、どうもそうではないようです。】とのことですが、ごらんになった【ノモンハン戦の研究者】の著作のなかで、
  1. ノムンハーネイ・ブルド・オボーその他を境界とする行政境界が1734年に成立したという北川四郎氏の考証が誤りであることを立証、指摘した研究、著作
  2. ノムンハーネイ・ブルド・オボーその他を境界として1734年に成立した行政境界満洲国の「ハルハ河国境」の主張以前から、廃れて機能しなくなっていたことを示す研究
  3. ノムンハーネイ・ブルド・オボーその他を境界として1734年に成立した行政境界とは別個の境界が存在し、用いられてきたことを示す研究
のいずれかに該当するものがあればご紹介ください。参考にして、記事を修正したく思います。--Dalaibaatur 2006年8月14日 (月) 02:39 (UTC)--(赤文字、削除と修正部)2006年8月16日 (水) 09:25 (UTC)
「正しい」国境線については、北川四郎『ノモンハン 元満州国外交官の証言』p84, 102, 158にあります。Dalaibaaturさんの論法に従えば、北川四郎は田中克彦と説を異にし不要のことを述べたということになりますね。記事中では両説を併記すべきということになるのですか。Kinori 2006年8月16日 (水) 08:30 (UTC)
コメントありがとうございます。ご紹介の『戦史叢書』やこの見解を「踏襲」したという研究で、上記3点に該当するものがありましたら、ご紹介いただけると幸甚です。北川氏の著作については、現在図書館に取り寄せを依頼中です。とどき次第検証してみます。
とはいえ、繰り返しになりますが、国境が「曖昧」だったのか、それとも清朝期に成立した行政境界が実在したのかどうか、という問題は、事実もしくは有無の問題であって、「正しい」、「正しくない」という評価とは別個の問題だと思います。またモンゴル満州国のそれぞれが主張する国境の一方を「正しい」、もう一方を「正しくない」と評価する類いの道徳的価値判断は百科事典になじまないので、不要かと思います。--Dalaibaatur 2006年8月16日 (水) 09:25 (UTC)

[編集] 対戦車戦闘の記述について

SSGBという方が

なお、「ソ連戦車が機関部の周囲に金網を張って火炎瓶避けにしたり、発火性の低いディーゼルエンジン装備の戦車を配備すると、効果がなくなった」とする資料が大変多いが、前者はノモンハン以前、後者はノモンハン以降の改良であり、時系列的に完全な誤りであるにもかかわらず、改められる気配が無い。

と書いていますが、金網についてはともかく、ディーゼルエンジン装備のBT-7はノモンハン戦に投入されており、この記述が誤りと思われますので、元に戻します。根拠は、以前に紹介した「ソヴィエト赤軍攻防史II 歴史群像第二次大戦欧州戦史シリーズ15」学研P.60の写真解説です。

「どこまでも続くノモンハンの草原で小休止中の赤軍戦車部隊。いずれもBT-7高速戦車だが、いちばん右は1938年型BT-7、その右はBT-5と同じ砲塔を備えた1935年型BT-7。(以下略)」

これを見る限り、ノモンハンにディーゼルエンジン搭載の1938年型BT-7が投入されたことは明らかですし、また1939年のノモンハン事件に1938年型の戦車が投入されることは時系列的にもまったく矛盾しないと思われます。なお、写真にある「BT-5と同じ砲塔を備えた1935年型BT-7」つまりガソリンエンジン装備のBT-7は、エンジンルームを金網で囲っているようには見えません。1台だけの例ですから断定は避けますが、本当に金網がノモンハン戦以前から標準装備だったのかどうか、怪しいと思われます。 BT戦車の項目にも同じような記述がありますが、やはりこれも誤りもしくは怪しいものではないかと思われます。--Inti-sol 2006年7月30日 (日) 15:12 (UTC)


え~、そのSSGBですが・・・ガソリンエンジン型のBT-7の1938年後期型と、ディーゼル型のBT-7M(後にBT-8、ロシアの戦車サイトによると試作は'38年で量産は翌年)をエンジングリルと装備されたジャッキの位置以外のどこで識別していらしゃいますか?新型の「円錐砲塔」を備えたBT-7がディーゼル装備型だけではないのはご存知ですよね?(どちらもイースタン・エクスプレス社から1/35のプラモデルが発売されています)また、排気口シャッター上の金網に至ってはBT-5どころかBT-2の後期型から装備され、BT-5では試験中の試作車に付いているのが確認できます。逆に独ソ戦の写真では、後期型BT-5でも破損したのか取り外された物もあります。考えてみれば、同じくノモンハンに投入されたT-26はやはりガソリンエンジンなのに、金網カバーの増設などしていないですよね。ぜひ、これらについての反論をお願いします。

:訂正・イースタンエクスプレスのBT-7Mは予告だけで結局発売されず、別物としてズベズタから1939年型円錐砲塔として発売されたようです(日本に入荷されたかどうか怪しいのですが)。またガソリン型も商品名は37年後期型で、こっちの名前が正しいようです。

ソ連崩壊後、書籍やウェブ上で新たに公開された情報は大変多く興味深いのですが、日本語版Wikiの軍事関係では信じられないほど反映されていない'80年代レベルの記事が多く、まったく困ったものです。


> エンジングリルと装備されたジャッキの位置以外のどこで識別していらしゃいますか?

識別できません。ただし、「ディーゼル型のBT-7M(後にBT-8、ロシアの戦車サイトによると試作は'38年で量産は翌年)」ということであれば、「翌年」つまり1939年に起こったノモンハン事件に投入されたとして、時系列的に矛盾はありません。

それから、金網の件は「1台だけの例ですから断定は避けますが」と書きましたが、これ訂正します。写真を見る限り他に3台のBT5あるいは1935年型のBT7が写っており、これらすべてに金網は写っていません。1台だけなら、たまたま取り外してしまったことも考えられますが、4台写っていてすべて金網がないのですから、やはりもともとなかった可能性が極めて高いのではないでしょうか。そもそも、途中から金網が張り巡らされた戦車が出てきたというのは日本側将兵の証言によるものだったと思います。つまり、標準装備というのが事実だったとしても、当初は実際には何らかの事情で(たとえば製造が間に合わなかったとか)その装備を搭載しない戦車がノモンハンに送られていたのではないか、ということです。--Inti-sol 2006年7月30日 (日) 22:38 (UTC)


再度SSGBです。お返事有難うございます。もしかして、砲塔が識別点であると誤解なさってましたか?もっとも「投入されたディーゼル型が皆無」としかとれないこちらの書き込みに関しては、改めさせていただきます。しかしこのタイプは41年までに合計706輌と比較的少数で、はたして作りたてでエンジンが違うこの戦車が部隊編成され訓練を終え、主力としてまとまった数を投入できたか?という点においてはあいかわらず疑問が残ります。 金網に関しては、例にあげられた写真の載った本が手元に無く確認できませんが、こちらの手元の資料(グランドパワー等)やウェブ上で見られる画像では、むしろ金網カバーの付かない車輌は圧倒的に少数(撃破されたものでは外れていることが多い)ですが、いくらなんでも一枚の写真だけで断言されてはいないですよね?・・・だいたい、第一次ノモンハン事件で捕獲された、日本兵が調べている有名な写真のBT-5には付いていますしね。夏のモンゴル平原で少しでも冷却効率を上げようと取り外していたのを、元に戻したというのも考えられますが。当時のロシア戦車兵の詳しい話が何かで読めればいいのですが。あと、海外サイトを訳してもディーゼルエンジン戦車の投入と金網、火炎瓶対策に関する記述が見つからないんですよね。


はい、砲塔の件は勘違いをしていました。この点は失礼いたしました。ただし、前述の写真で1935年型のBT-7と1938年型BT-7がごちゃ混ぜに運用されていることから見ても、部隊編成して訓練を積んで、という過程を踏むよりも、完成した新兵器はどんどん投入していった可能性が高いと思われます。1941年までに706両生産といっても、1939年中にはT-34が、40年にはKV戦車が正式採用されて生産が始まっていますから、BT戦車の生産は大半は1939年からせいぜい40年のはじめ頃までに集中していると推定できます。。とはいえ、ソ連軍が投入した戦車は推定500両以上ですから、その大多数がディーゼルエンジン搭載のBT-7Mに置き換わったわけではないかもしれません。

「夏のモンゴル平原で少しでも冷却効率を上げようと取り外していたのを、元に戻したというのも考えられますが」そういうことも考えられますね。エンジン整備上も邪魔だったでしょうし。あとは、金網だけ生産が間に合わなかったとか。

それから、ノモンハン事件は日ソ間の紛争ですし、その他にモンゴルと「満洲国」が戦闘に参加しているだけですから、諸外国(ロシアを除く)のノモンハン事件研究はすべて、そのどちらかの国の資料に基づいて行われています。大半は日本側資料でしょうが。あと、BT-5まではスペイン内戦にも参加しているので、BT戦車についてはスペインにも多少は資料がある可能性はあります。従って、日本の文献より諸外国(ロシアとスペインを除く)の文献を優先する理由はないのではないかと思います。--Inti-sol 2006年8月1日 (火) 15:46 (UTC)


三度書き込ませていただきます、SSGBです。とりあえず、BT-2の途中から既に使用されていることから「金網はノモンハンでの日本軍の火炎瓶に対抗して新設された物ではない」のが確実であることは納得していただけたでしょうか?なにしろ、戦う前からもともとあったわけですし。

>エンジン整備上も邪魔だったでしょうし

全ッ然邪魔じゃありません。上にのっけてボルト二個と蝶番二箇所で固定してあるだけですし、そもそもこれはエンジン点検ハッチの後ろにあるのですから。失礼ですが、今までBTの機械的構造を調べずに想像で断言されていたのでしょうか?また、金網というのが車体後上部に付く120×70×20cmくらいの出っ張りであることは当然ご理解なさってますよね?この金網はエンジングリル最後部の排気口に被さっています。BT以降、T-34やスターリン戦車などは同じようなレイアウトで、前部の縦長のシロッコファン二基でエンジンルームに取り込まれた空気が、後部に伸びたシャフトに付けられたプロペラで流れ、後上方の排気口(可動する横長の二枚の板が傾いて隙間を作っている)から抜けていく仕組みで、この開口部にカバーが何も無いと降り注いだ砲弾の破片や泥土が抵抗無くモロに飛び込んできてしまう(電装系のショートの原因。BTの場合この開口部の真下はトランスミッションですが。)わけです。金網はこういった異物混入防止用のものであり、他の国の戦車にも普通についています。確かに装甲でなく、装甲より浮かした形の金網に火炎瓶が直撃しても瓶が割れず発火しにくいでしょうが、そもそもの設置目的は別なのです。どうも、BTと戦った日本兵がこれを見て勝手に「火焔瓶よけ」と解釈した可能性が高いですね。後の日本の機動隊の車輌の窓に投石や火焔瓶を防ぐための金網(BTのものよりずっと目が粗い)が付いていますが、後世の戦史家がこれらの機能と混同しているような気もします。また、ディーゼルとその発火性、日本が使用していた「火焔瓶」についても間違った情報がやたら多いのですが、長くなりますので後ほど。何にせよ、21世紀にもなって古いデータを有難いお経のごとく無批判に書き写しただけの「百科事典」など、価値があるどころか弊害ですので、多方面からの視点で研究を重ねたいと思っています。

>1935年型のBT-7と1938年型BT-7がごちゃ混ぜに運用されている

1938年型というのは砲塔後部にDT機銃の付いているタイプですが、確かでしょうか?(対空機銃が付くと1939年型、つまりBT-7M)ちなみにどちらもエンジンが同じですので、損失車輌の補充として混成配備されていて当然、不思議でも何でもありません。しかし、エンジンと燃料系が違うのでは、残存部隊をかき集めての臨時編成でもないかぎり普通ありえません。(近い例として、同じ部隊に配備されたアメリカのM4とM4A1がありますが、やはりここにM4A2が配備されることはありません。)再び失礼ですが・・・これらはここ十年、ウェブや日本語で読める月刊誌で容易に確認できるレベルの知識なのですが・・・あなたが戦車そのものに関してはとてもお詳しい様子には見受けられず、不安になってきました。

>日本の文献より諸外国(ロシアとスペインを除く)の文献を優先する理由はないのではないかと思います。

いや、そのロシアのサイト(有難いことに英語ページあり)で見つからないのですよ。

お二人とも、Wikipedia:独自の調査に目を通してください。これには「草案」とついていますが、方針自体は古くからある基本的なものです。
ウィキペディアは最新の研究成果を発表する場所ではありませんし、議論を通じて真実を見極める場所でもありません。ウィキペディアの目標は、既存の知識をまとめることです。既存の知識が古くさくて誤っているならその古くさい誤りを有難がって無批判に記すのです。新資料から独自に考察を進めて既存の知識を批判することは、ウィキペディアでは禁止されています。(ちゃんとした研究者なら、他の研究発表の場を知っているはずですから、禁止されて困ることはありませんよね。)
既存の知識の誤りが、新しい研究によって既に正されているなら、それは(あるいは「それも」)既存の知識として受け入れられます。ノモンハンのソ連戦車に関する誤説を正したという文献を挙げてください。何も挙がらないなら何も載せられません。何か挙げてくだされば、その権威や広まりによって、併記か置き換えかが決まります。Kinori 2006年8月5日 (土) 03:49 (UTC)

kinori様了解しました、ありがとうございます。

先日「独ソ戦車戦シリーズ7 ノモンハン戦車戦」(マクシム・コロミーエツ著小松徳仁訳・大日本絵画)という本を入手しまして、まだ全部は読んでいませんが一部読んだところ、SSGBさんのおっしゃるしおり、確かにノモンハン以前(と写真の説明文に記載されている)から金網を張ったBT戦車が存在すること、しかしノモンハン戦中に金網を張っていない戦車も(もちろん、撃破された後などではありません)かなり見られることが分かりました。また、SSGBさんがおっしゃっている写真と同じものかどうかは分かりませんが、日本兵が捕獲したBT戦車を調べている写真も掲載されていました。確かに金網はあるものの、時期は1939年7月となっており、そうであれば第1次事変の時のものではありません。もし日本軍の捕獲したBT戦車の写真が複数あるのなら、それはあまり意味のないことですが。というわけで、この件は明確な結論を出すことが難しいかもしれません。強いて言えば、「金網はノモンハン以前からから装備されていたが、外していた車両もかなり多かった」というところでしょうか。--Inti-sol 2006年8月11日 (金) 14:18 (UTC)

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