バディ・ホリー
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バディ・ホリー(Buddy Holly, 1936年9月7日 – 1959年2月3日)は、アメリカのロック草創期に活躍したミュージシャンである。本名はチャールズ・ハーディン・ホリー (Charles Hardin Holley)、4人兄弟の末っ子で母親がホリーの事を“buddy(坊や)”と呼んでいた事から、バディと名乗るようになったと言われている。
後のビートルズなどに大きな影響を与えた。ギター二本とベースとドラムスでバンドを編成するスタイルは彼から始まった。
しゃくりあげるような裏声を用いて独特のアクセントをかもすヒーカップ唱法や、軽快なビートが特徴である。
愛用のエレクトリック・ギターはソリッド構造のフェンダー・ストラトキャスターで、ギブソン社のフル・アコースティック・ギターが全盛だった当時は新鮮であった。60年代にデビューしたロック・アーティストには、彼の影響でストラトを手にしたと語る者も少なくない。
活動後期にはヴォーカルのダブル・トラックやストリングスの導入など、レコーディング・テクニックの可能性を追求し始め、存命し続けていればさらなる音楽的成長が期待できたと惜しむ声も多い。
バンドのホリーズ (The Hollies) は彼にちなむ。
[編集] 生涯
ホリーはテキサス州の石油と酪農の街ラボックに生まれた。家族全員が音楽好きという環境の中で自然と音楽に親しみ、高校時代にはバンドを結して、当初は主にカントリー・ミュージックを演奏した。
1956年にはデッカレコードと契約しレコーディングをしている。この頃はスリー・チューンズとよばれたカントリーバンドとしてクラブなどで演奏していた。
その頃エルヴィス・プレスリーとの出会いがあり、その影響でロックンロールに傾倒し 1957年有能な音楽プロデューサー、ノーマン・ペティによりその才能を開花させ、新たなバンドクリケッツを結成し『バディ・ホリー&ザ・クリケッツ』としてロックンロール界にデビューする。
デビュー曲の「ザットル・ビー・ザ・デイ」をはじめ、「イッツ・ソー・イージー」「ペギー・スー」などを大ヒットさせた。
1958年8月15日にはプエルトリコ出身のマリア・エレナ・サンティアゴ (Maria Elena Santiago) と結婚。同年、ホリーはソロとしてザ・クリケッツと別々に活動する事になる。
その独自の知的でスマートな楽曲や、眼鏡にスーツといういでたちは、不良っぽいプレスリーらとは一線を画すもので、それが一般のおとなしい若者を中心に受け入れられた。ついにはプレスリーと並ぶほどの人気を博したが、1959年2月3日未明、ツアー公演中の移動のために搭乗したミネソタ州ムーアヘッド行きのチャーター機が、吹雪のために方向を失ってアイオワ州のトウモロコシ畑に墜落し、ホリーは死亡した。同乗していたミュージシャンのリッチー・ヴァレンスとビッグ・ボッパー、そしてパイロットを含めた4人全員が助からなかった。ホリーはこのときわずか22歳であった。
[編集] エピソード
- 音楽を聴いたプロモーターが黒人と間違えて、黒人専用のホールにブッキングされたことがある。
(そんなホリーをミック・ジャガーは「レコードジャケットの写真を見るまでバディホリーは黒人だと思っていた」と語っている)
- ジョージ・ルーカス監督の映画『アメリカン・グラフィティ』の中に「バディホリーが死んでロックンロールは終わった」というセリフがある。
- 「3コード、バンド、立って楽器を弾くスタイル、ビートルズはバディホリー&ザ・クリケッツの真似から始まった」とポール・マッカートニーは語る。
- ビートルズの前身バンド、クォーリーメン結成後初めてのレコーディング(1957年)で前述の「ザットル・ビー・ザ・デイ」を取り上げるなど、アマチュア時代には、ホリーの楽曲を多くレパートリーにしていたのに、公式にカバーしたのがこの1曲のみ(ワーズ・オブ・ラブ)というのは、「ホリーの曲は別好きなものだから、彼に敬意を表するためにあえてカバーしないようにする」という取り決めがあったから、という説がある。エルヴィス・プレスリーの楽曲も同様の理由で公式カバーされていない。なお、両者ともBBCのラジオ番組ではたびたびカバーしており、『ザ・ビートルズ・ライヴ!!アット・ザ・BBC』で聞くことができる。
- ジョン・レノンは青年時代、眼鏡をかけることに強い抵抗感を持っていたが、バディ・ホリーが「眼鏡をかけたロックン・ローラー」として堂々と振舞っていたのを見て、人前で眼鏡をかける事を恥と思わなくなったという。
- ポール・マッカートニーはバディ・ホリーの版権を所有している。