ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (映画)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! A Hard Day's Night |
|
監督 | リチャード・レスター |
---|---|
製作 | ウォルター・シェンソン |
脚本 | アラン・オーウェン |
出演者 | ビートルズ |
音楽 | ジョージ・マーティン |
撮影 | ギルバート・テイラー |
編集 | ジョン・ジンプソン |
公開 | 1964年7月6日 |
上映時間 | 87分 |
製作国 | イギリス |
言語 | 英語 |
制作費 | $560,000 |
allcinema | |
IMDb | |
『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』 (A Hard Day's Night) は、ビートルズ初の主演映画。2001年に「ハード・デイズ・ナイト」のタイトルでリバイバル上映された。
邦題の「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」の命名者は映画評論家の水野晴郎であるとされる。
[編集] 概要
エルヴィス・プレスリーのようにミュージシャンでありながら映画にも出演するスターは当時は沢山存在した。エルヴィスに憧れて音楽を始めたビートルズも、それらのスターに近づくべく映画への出演をすることになる。それは彼らが愛して止まないロックンロールの発祥の地であるアメリカでの成功という、別の目標もあった。
監督は当時、イギリスで短編コメディを作っていたTV界出身のリチャード・レスター。彼は後に「スーパーマンII」を手がけたり、「ナック」でカンヌ国際映画祭グランプリを受賞するほどの名監督になるが、そのレスターが映画界へ進出するきっかけとなった作品がこの作品である。
脚本のアラン・オーウェンは、アメリカでこれまで量産されていたミュージシャン映画のメロドラマといったスタイルを踏襲せず、イギリス気質あふれるコメディ作品にしようと考え、ビートルズの忙しい日常をドキュメンタリータッチで描くことにした。つまり、ビートルズがビートルズ自身の風刺漫画を演じるという作品になったのである。
タイトル『A Hard Day's Night』の由来は、リンゴ・スターが発した「今日も辛い一日だったね」という一言を、リンゴ特有のユーモアで発した言い回しが元になっている。呼んで字のごとく、Dayの後にNightが来るなど、文法を無視した言葉遊びになっている。(なぜこうなったかと言えばリンゴが「It's been a hard day.」と言ったあと外を見たらもう暗くなっていたことに気付いて「...'s night.」と付け足したというエピソードがある。)
アメリカでの成功を念頭においていたため、サウンドトラックも兼ねた同名のアルバムを製作。ビートルズがデビュー後初めて、カバー曲を収録せずに彼らのオリジナル曲のみで製作したアルバムとなった。
しかし当時のビートルズは多忙を極めており、作曲とレコーディングには2週間しかなかったにも関わらず、クオリティの高いアルバムに仕上がっていることからも、彼らの才能の高さが伺える。
作成された楽曲のほとんどは作品中で演奏された。また、公開放送の本番という設定で演奏されたシーンの観客の中には、エキストラとして若き日のフィル・コリンズがいた。
ビートルズがファンの女の子に追いかけられるという印象的なオープニングで始まるこの作品だが、地下鉄マリルボーン駅近くのボストン・プレースという路地で撮影の際、ジョージは走っていて本当に転んでしまい、そのシーンが実際に使われている。
また、劇中で乗り込んだ列車の中でビートルズがナンパする女学生の一員に、後にジョージの最初の妻となるパティ・ボイドが出演している。撮影中にジョージとパティが恋仲になり交際がスタートしたと言われている。
この作品では4人がそれぞれ主役であるが、特に印象に残る演技を披露しているのが、この作品のタイトルの考案者でもあり、ビートルズのコメディ面を担当していたリンゴである。この作品で演技が絶賛され、リンゴ自身も演技への自信をつけたことから、次作『HELP! 四人はアイドル』やビートルズ解散後の映画作品への出演に繋がったことからも、ジョージだけでなく、リンゴも本作品は人生にとって転換期となった作品である。
映画作成に当たって、アメリカでの失敗を恐れて低予算&モノクロで製作されたが、結果は大ヒットとなり、アメリカでもビートルズの作品が軒並み大ヒットを記録し、夢であり目標であったエルヴィス超えが現実のものとなったのである。
このアメリカでの成功は当時のイギリスでは衝撃的な出来事として迎えられた。なぜなら、ビートルズ以前のイギリス人アーティストはことごとくアメリカで惨敗を喫しており、ビートルズ以前に登場し、現在でもイギリスの国民的アーティストであるクリフ・リチャードでさえも成し遂げることができなかったからである。
本作品とアルバムの成功で始まった初のアメリカツアーのために、ケネディ空港に降り立った彼らをひと目見ようと押しかけたファンの数は、現在でも同空港に押し寄せた見物客の最高記録を誇っているという。