フェートン号事件
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フェートン号事件(フェートンごうじけん)は、1808年8月、鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件である。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が東アジアの日本にまで影響を及ぼした事件。
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[編集] 背景
17世紀前半以来、欧州諸国のなかでオランダ(ネーデルラント連邦共和国)のみが長崎出島で日本との通商を許されていた。イギリスは江戸時代初期には長崎に商館を設置して対日貿易を行っていたが、経営不振のために停止、その後は再開を試みるものの、江戸幕府は拒絶。
18世紀末フランス革命が起こると、フランス軍が1793年オランダを占領、オランダ統領のウィレム5世はイギリスに亡命した。オランダでは地元の革命派によるバタヴィア共和国が成立、オランダ東インド会社は1798年解散した。バタヴィア共和国はフランスの影響下にあるとはいえ一応オランダ人の政権であるが、ナポレオン皇帝は1806年弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王(ホラント王国国王)に任命し、フランス人によるオランダ王国が成立した。このため、世界各地にあったオランダの植民地はすべて革命フランスの影響下におかれることとなった。
ウィレム5世の依頼によってイギリスはオランダの海外植民地の接収を始めたが、長崎出島のオランダ商館を管理する東インド植民地のバタヴィア(ジャカルタ)は依然としてフランス派の支配下にあった。アジアの制海権はイギリスが握っていたため、バタヴィアでは中立国のアメリカ籍船を雇用して長崎と貿易を続けていた。
[編集] 事件の経過
1808年(日本暦文化5年8月15日)、イギリスはオランダ船拿捕を目的としてイギリス艦フェートン号(グリッドウッド・ペリュー大佐指揮)を派遣し、10月4日)にフェートン号は国籍を偽ってオランダ国旗を掲げて長崎へ入港した。これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館員ホウゼンルマンとシキンムルの2名は慣例に従い、長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えのため船に乗り込もうとしたところ、武装ボートによって商館員2名が拿捕され、船に連行された。それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めてボートで長崎港内の捜索を行い、人質の1人ホウゼマンを派遣して薪水や食料(米・野菜・肉)の提供を要求する。
長崎奉行の松平康英は、湾内警備を担当する鍋島藩・福岡藩の両藩にフェートン号の焼き討ち、もしくは抑留を命じ、大村藩などにも派兵を促した。オランダ商館長ヘンドリック・ズーフは長崎奉行所内に避難し、戦闘回避を勧め、ここに来て長崎警衛当番の鍋島藩が太平に慣れて守備兵をわずか150名程度に減らしていたことが判明する。
翌16日、イギリス船がオランダ人1名を釈放して、欠乏食料の供給を求め、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきた。襲撃兵力のない長崎奉行はやむなく要求を入れ、食料や飲料水を供給し、オランダ商館も豚と牛を送った(これは当時日本国内で肉食の習慣がなかったので肉を用意できなかったためと思われる。この肉は唐人屋敷の中国人から購入したという)。このためイギリス船は残りのオランダ人も釈放し、翌17日に港外に去った。
[編集] 結果
手持ちの兵力もなく、侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった松平康英は国威を辱めたとして自ら切腹し、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹した。さらに江戸幕府は鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月には藩主・鍋島斉直に100日の閉門を命じた。フェートン号事件ののち、ズーフや長崎奉行曲渕景露らが臨検体制の改革を行い、秘密信号旗を用いるなど外国船の入国手続きが強化される。その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は25年には異国船打払令を発令する。
一方、イギリスは1811年になってインドからジャワ島に遠征軍を派遣し、バタヴィアを攻略、東インド全島を支配下に置いた。イギリス占領下のバタヴィアから長崎のオランダ商館には何の連絡もなく、商館長ズーフらはナポレオン帝国没落後まで長崎出島に放置された。
[編集] 外部リンク
- フェートン号図(拡大可)