長崎奉行
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[編集] 概略
豊臣秀吉は長崎がキリシタンの根拠地になっているということ、また交易の重要性に鑑み、これまで大村氏の所領であったのを天正16年(1588年)4月2日、直轄地とした。ついで、鍋島直茂(肥前佐賀城主)を代官とした。これが長崎奉行の前身である。ついで寺沢広高(肥前唐津城主)を初代の奉行とした。
秀吉死後、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は豊臣氏の蔵入地を収公し、長崎行政の所管は江戸幕府に移った。初期は竹中重義など、秀忠の側近大名が任ぜられたがのち小禄の旗本が、のちには1000~2000石程度の上級旗本が任ぜられるようになった。幕末まで常置された。
[編集] 機構
当初定員は1名で、南蛮船が入港し現地事務が繁忙期となる前(6月頃)に来崎し、南蛮船が帰帆後(10月頃)に江戸へ帰府するというパターンであったが、寛永10年(1633年)2月に2名制となり、貞享期(1684年~1688年)には4名制、ついで元禄期(1688年~1704年)には3人制となり、最終的に享保期(1716年~1736年)以降は概ね2人制で定着する。定員2名の内、1年交代で江戸と長崎に詰め、毎年8月から9月頃、交替した。
奉行は老中支配、江戸城内の詰席は芙蓉の間で、元禄3年(1690年)には、就任すると諸大夫(従五位下)とされた。奉行所は、江戸町(現、長崎市江戸町・長崎県庁所在地)と立山(現、長崎市立山1丁目・長崎歴史文化博物館在地)に複数点在し、総称して長崎奉行所と呼んだ。
奉行の配下には、支配組頭、支配下役、支配調役、支配定役下役、与力、同心、清国通詞、オランダ通詞がいたが、これら以外にも、地役人、町方役人、町年寄なども長崎行政に関与しており、総計1000名にのぼる行政組織が成立した。
[編集] 任務
奉行は天領長崎の最高責任者として、長崎の行政・司法に加え、長崎会所を監督し、清国、オランダとの通商、収益の幕府への上納、勝手方勘定奉行との連絡、諸国との外交接遇、唐人屋敷や出島を所管し、諸国の動静探索、日本からの輸出品となる銅・俵物の所管、西国キリシタンの禁圧、長崎港警備を担当した。長崎港で事件がおこれば,佐賀藩、唐津藩をはじめ近隣大名を動員し、指揮する権限も有していた。
江戸時代も下ると、レザノフ来航、フェートン号事件、シーボルト事件、プチャーチン来航など、長崎近海は騒がしくなり、奉行の手腕がますます重要視されるようになる。
[編集] 長崎奉行の収入
奉行は、格式は公的な役高1000石、在任中役料4400俵であったが、長崎奉行は公的収入よりも、余得収入の方がはるかに大きい。
すなわち、輸入品を関税免除で購入する特権が認められ、それを国内で転売して莫大な利益を得た。加えて舶載品をあつかう清国人・オランダ人、長崎町人、貿易商人、地元役人たちからの献金品(入朔銀)もあり、一度長崎奉行を務めれば、子々孫々まで安泰な暮らしができるほどだといわれた。そのため、長崎奉行ポストは旗本垂涎の猟官ポストとなり、長崎奉行就任のためにつかった運動費の相場は3000両といわれたが、それを遥かに上回る余得収入があったという。
[編集] 歴代長崎奉行
- 小笠原一庵(1603年-1604年)
- 長谷川重吉(1604年-1605年)
- 長谷川藤広(1605年-1614年)
- 長谷川藤正(1605年-1614年)
- 水野守信(1626年-1629年)
- 竹中重義(1629年-1634年)
- 曽我古祐(1633年-1634年)
- 今村正長(1633年-1634年)
- 神尾元勝(1634年-1638年)
- 榊原職直(1634年-1641年)
- 大河内政勝(1638年-1640年)
- 拓植正時(1640年-1642年)
- 馬場利重(1642年-1650年)
- 山崎正信(1642年-1650年)
- 黒川正直(1650年-1665年)
- 甲斐正述(1651年-1660年)
- 妻木頼態(1660年-1662年)
- 島田忠政(1662年-1666年)
- 稲生正倫(1665年-1666年)
- 松平隆見(1666年-1671年)
- 河野通定(1666年-1672年)
- 牛込重恭(1671年-1681年)
- 岡野貞明(1672年-1680年)
- 川口定恒(1680年-1693年)
- 宮城和甫(1681年-1686年)
- 大沢基哲(1686年-1687年)
- 山岡景助(1687年-1694年)
- 宮城和澄(1687年-1696年)
- 近藤用景(1694年-1701年)
- 丹羽長守(1695年-1702年)
- 諏訪頼隆(1696年-1698年)
- 大橋義也(1699年-1703年)
- 林忠朗(1699年-1703年)
- 永井直允(1702年-1709年)
- 別所常治(1702年-1711年)
- 石尾氏信(1703年-1705年)
- 佐久間信就(1703年-1713年)
- 駒木政方(1706年-1714年)
- 久松定持(1710年-1715年)
- 大岡清雄(1711年-1717年)
- 石川政郷(1715年-1726年)
- 日下部博貞(1717年-1727年)
- 三宅康政(1726年-1732年)
- 渡辺永倫(1727年-1729年)
- 細井安明(1729年-1736年)
- 大森時長(1732年-1734年)
- 窪田忠任(1734年-1742年)
- 萩原美雅(1736年-1743年)
- 田付景厖(1742年-1746年)
- 松波正房(1743年-1746年)
- 阿部一信(1746年-1751年)
- 松浦信正(1748年-1752年)
- 菅沼定秀(1750年-1757年)
- 大橋親義(1752年-1754年)
- 坪内定央(1754年-1760年)
- 正木康恒(1757年-1763年)
- 大久保忠興(1760年-1762年)
- 石谷清昌(1762年-1770年)
- 大岡忠移(1763年-1764年)
- 新見正栄(1765年-1774年)
- 夏目信正(1770年-1773年)
- 幸原盛貞(1773年-1775年)
- 拓植正寔(1775年-1783年)
- 久世広民(1775年-1784年)
- 土橋守直(1783年-1784年)
- 土屋正延(1784年-1785年)
- 戸田代盈(1784年-1786年)
- 松浦信程(1785年-1787年)
- 水野忠通(1786年-1792年)
- 末吉利隆(1787年-1789年)
- 永井直廉(1789年-1792年)
- 平賀貞愛(1792年-1797年)
- 高尾信福(1793年-1795年)
- 中川忠英(1795年-1797年)
- 松平貴強(1797年-1799年)
- 朝比奈昌始(1798年-1800年)
- 肥田頼常(1799年-1806年)
- 成瀬正存(1801年-1806年)
- 曲淵景露(1806年-1812年)
- 松平康英(1807年-1808年)
- フェートン号事件の責任を取り切腹
- 土屋廉直(1809年-1813年)
- 遠山景晋(1812年-1816年)
- 遠山金四郎の父
- 牧野成傑(1813年-1815年)
- 松山直義(1815年-1817年)
- 金沢千秋(1816年-1818年)
- 筒井政憲(1817年-1821年)
- プチャーチンとの外交交渉を担当
- 間宮信興(1818年-1822年)
- 土方勝政(1821年-1827年)
- 高橋重賢(1822年-1826年)
- 本多正収(1826年-1830年)
- 大草高好(1826年-1833年)
- 牧野成文(1830年-1836年)
- 久世広正(1833年-1839年)
- 戸川安清(1835年-1842年)
- 田口喜行(1839年-1841年)
- 柳生盛元(1841年-1843年)
- 伊沢政義(1842年-1845年)
- 井戸覚弘(1845年-1849年)
- 平賀勝定(1846年-1848年)
- 稲葉正申(1848年)
- 大屋明敬(1848年-1850年)
- 内藤忠明(1849年-1852年)
- 一色直休(1850年)
- 牧義則(1850年-1853年)
- 大沢安宅(1852年-1854年)
- 水野忠篤(1853年-1854年、1857年)
- 荒尾成充(1854年-1859年)
- 川村修就(1855年-1857年)
- 大久保忠寛(1857年)
- 岡部長常(1857年-1861年)
- 朝比奈昌寿(1861年)
- 高橋和貫(1861年-1862年)
- 大久保忠恕(1862年-1863年)
- 杉浦勝静(1863年)
- 京極高朗(1863年)
- 大村純燕(1863年-1864年)
- 服部常純(1863年-1866年)
- 朝比奈昌広(1864年-1866年)
- 能勢頼文(1865年-1866年)
- 徳永昌新(1866年-1867年)
- 河津祐邦(1867年-1868年)