フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)
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フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(Friedrich Wilhelm I. 、1688年8月15日 - 1740年5月31日)はプロイセン国王(在位1713年2月25日 - 1740年5月31日)。粗暴で無教養だったが財政・軍制の改革によってプロイセンの強大化に努め、兵隊王(Soldatenkönig)とあだ名された。
[編集] 生涯
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は1688年8月15日、後にプロイセン王フリードリヒ1世となるブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世とその妻ゾフィー・シャルロッテ(ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストの娘)との間に生まれた。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は1689年から1692年までをハノーファーの祖母ゾフィー・フォン・ハノーファーに育てられ、その後ドーハ城伯アレグザンダーやユグノーのジャン・フィリップ・ロビュールらによって教育を受けた。1698年の10才の誕生日には父からヴスターハウゼンの荘園を贈られ、1701年のフリードリヒ1世の即位にともなってオラーニエン公となった。
1706年11月28日王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は母方の伯父ハノーファー選帝侯ゲオルク1世(後のイギリス国王ジョージ1世)の娘で従姉に当たるブラウンシュヴァイク=リューネブルク=ハノーファー公女ゾフィー・ドロテーアと結婚した。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はゾフィー・ドロテーアとの間には、4人は早世したものの計14人の子供をもうけ、ロココ時代の君主のならいであるような多情を抱かなかった。
1713年2月25日フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は父王の死によってプロイセン王位を継承したが、フリードリヒ1世の浪費によってこのときのプロイセンは破産寸前だった。こうして新王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は軍事・財政の全般的な改革に乗り出すことになる。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は精力的に国政の合理化・単純化に取り組み、同時に軍事力の強化に着手した。経済力のある市民の受け入れを促進し、ペストによって人口希薄になった東プロイセンに、フォンテーヌブローの勅令によりカトリック勢力に迫害されたフランスのユグノーたちを誘致した。1732年、特にプロテスタントへの迫害の厳しかったザルツブルク大司教領からは2万以上の難民が移住し、荒廃した東プロイセンには再び活気が満ちた。また1713年の官営紡績工場設立、1717年のハーフェル川流域の沼沢地干拓、1727年のベルリン施療院設立などが王の業績として挙げられる。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が行った軍制改革によって徴兵区が設けられ、地域別に編成された連隊への人員供給が安定した。また王は長身の兵を偏愛し、そのような兵のみを選抜した「ポツダム巨人軍」と呼ばれる近衛連隊を組織したことは有名である。各地に出向いた徴兵官は誘拐や大金によって長身の壮男を募り、その中にはスコットランド人などもいたが、王はベルリンに専用の邸宅まで用意して兵士に与えたりした。この連隊の維持には多額の費用がかかったが、兵力としてはなんら長所はなく、この王の唯一の娯楽ともいうべき連隊は、息子のフリードリヒ2世の即位後廃止された。王は軍隊の育成に心血を注いだが、この軍隊はほとんど実戦を戦うことはなく、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が参加した戦争は大北方戦争のみであった。スウェーデン軍を相手に戦ったこの戦争でプロイセンは勝利を収め、1720年のストックホルム条約で、前ポンメルン、シュテッティン、ウーゼドム島などの領地を獲得した。
王の治世には非常に多くの細かい勅令や指令が下され、いちいち臣下の生活に干渉した。勅令はたとえば「市場にて商いをする物売り女たちは、暇なとき無駄話をする代わりに糸を紡ぐべし」というようなものであり、しばしば王みずから勅令が守られているかどうかを視察し、違反者は容赦なく杖で打たれた。あまりの恐ろしさに、違反を犯していないものでも王の姿を見ると逃げ出したと言われており、何故逃げたかと問われて「王が恐ろしいので」と言う男に王は「お前たちは私を好きになるんだ!」と打ちのめしたという逸話がある。
このような暴力性は既に子供のころから顕著で、文化人である父王とはそりが合わず嫌われていたし、妃ゾフィー・ドロテーアの父ジョージ1世と子供のころハノーファーで会ったときはその髪をひきむしって暖炉にくべたという。また王のもう1つの特徴として非常な吝嗇が挙げられ、その宮廷の料理の質素なことに外国の使節はしばしば驚愕した。かといって王が質素な料理を特に愛したわけでなかったということは、ある臣下の日記に「王は招かれることをお好みになり、たびたび臣下の財布で飽食なさっては狼のように反吐をお吐きあそばされた」とあることから分かる。またこの時代につきものの外交的接待については、ある時「6,000ターラーしか使ってはならぬが、3万から4万ターラーを使ったように見せかけよ」と訓示していることから、王としての威厳を維持する必要を理解していたことも分かる。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世には、後にフリードリヒ2世となる王太子とは深刻な葛藤があり、気質の正反対な息子に対して王は、しばしば暴力によって王となる者の模範を示した。「オペラや喜劇などのくだらぬ愉しみには絶対に近づかせぬこと」と教育係に厳命し、王子の蔵書は取り上げられた。このような束縛は当然さらなる反発を招き、逃亡未遂と幽閉という結果を生むことになる。しかし王の晩年に父子は和解し、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は後継者に対して全幅の信頼を表す言葉を残している。
1739年、自らが復興させた東プロイセンの繁栄を確かめる視察旅行の後、持病の水腫が悪化し、1740年5月31日、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は世を去った。フリードリヒ2世は後年父王について「彼ほど些事にかかずらう人はこれまでなかったであろう。まったく小さなことにかかずらうに当たっても、彼は小を扱うことが大をなすのだということを確信していたからである」という言葉を残している。
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