ブランシュ・ド・カスティーユ
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ブランシュ・ド・カスティーユ (Blanche de Castille,1188年3月4日 - 1252年11月26日)は、フランス王ルイ8世の王妃。カスティーリャ王アルフォンソ8世と王妃エリナー・オブ・イングランドの三女としてパレンシアで生まれた。スペイン名ではブランカ・デ・カスティーリャ(Blanca de Castilla)。
フランス王フィリップ2世とイングランド王ジョンの間に和平が結ばれ、ブランシュの二姉ウラッカとフランス王太子ルイとの婚約が提案された。ブランシュたちの祖母であるイングランド王太后アリエノール・ダキテーヌは、二人にこの婚約話を知らせにカスティーリャに来訪し、ブランシュの資質がフランス王妃に向いていると判断した。別の話では、王女ウラッカの名前がフランス語にない名前のため、宮廷の吟遊詩人らのからかいの的になるといけないからと、ブランシュが選ばれたという。(ウラッカはポルトガル王アフォンソ2世の王妃となった。)
1200年春になるとすぐブランシュはフランスへ連れて行かれ、5月に条約が最終的に結ばれた。ジョン王は、姪とともに、イソルダンとグラセイの領土、ベリーで捕らえたシャトルー卿アンドレ・デ・ショウヴィニュイを引き渡した。その翌日から結婚式は、フランス領ではなく、ジョンの領土であるセーヌ川右岸のポールモールでとりおこなわれた。
1216年に、ブランシュはその才能を見せつけた。ジョン王の死に乗じてルイ王太子は妻の持つイングランド王位継承権を主張して、隣国へ侵攻した。父王フィリップは援助を拒否したため、ブランシュ一人だけが彼の味方だった。ブランシュ自らカレーで二つの艦隊を指揮した。この彼女の努力は全て水泡に帰した。あとわずかで即位できるところまで、新王ヘンリー3世を追いつめながら、猛反撃を受け撤退を余儀なくされたのである。このことで明らかなように、強烈な意志を持ったブランシュが、穏やかな性格のルイを支配していた。祖母アリエノール、母エリナーともそれぞれの夫とともに政治に関わった女性だったが、彼女にもその血が受け継がれていた。
ルイが若くして亡くなると、ブランシュは、12人もしくは13人の子供たち(うち6人は夭折)の保護者となり、12歳の王ルイ9世の摂政となった。当時、カペー家の領土が、フランス領の多数を占めるイングランドに飲み込まれる、まさにきわどい状況にあった。国内の貴族たちにも不穏な空気が流れていたのである。ブランシュは孤軍奮闘し、1226年の男爵たちのリーグを撃破した。1230年に侵入したヘンリー3世を追い払った。彼女の精神力と強い意志が危機に打ち勝ったのである。またこの頃、シャンパーニュ伯ティボー4世が彼女に捧げた情熱的な詩のためにブランシュは「ふしだら」と中傷され、パリ滞在中の法王特使、サンタンジェロ枢機卿ロマーノ・ボナヴェンチュラが逗留を延長する羽目になった。
貴族たちは、ブランシュの好戦的な姿勢に恐れをなし、または外交術で味方に引き入れられ、反ブランシュ派の貴族のリーグは崩壊した。ルイ9世は母に自身の王国の舵取りを託し、常にブランシュの影響下にあった。1234年に親政が始まっても、母の影響の下から脱しなかったのである。1248年、ブランシュは、彼女の反対にもかかわらず十字軍に加わり聖地へ向かった王の替わりに、再び摂政となった。
1252年、ブランシュはムランで病に倒れ、パリへ連れていかれたが、数日後に亡くなった。彼女はモービュイッソンに葬られた。