ブルガール人
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ブルガール人(Bulgar)は、中世の東ヨーロッパで活動したテュルク系遊牧民である。
広い地域に分散した彼らのうち、バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に侵入した一派はブルガリア帝国を建国、キリスト教の東方正教会信仰を取り入れ、先住の南スラヴ人に言語的に同化されて現在のブルガリア人の先祖となった。そのためプロト・ブルガリア人もいう。
ブルガール人の先祖は2世紀頃ウラル山脈以西のヨーロッパ大陸にあらわれ、カスピ海と黒海の間に広がる草原地帯で遊牧生活を送るようになった。一部はこの地域でフン人の西進に加わり、東ヨーロッパに移動した。フン人の西進後、ブルガール人は5世紀頃から一部はたびたびビザンツ帝国(東ローマ帝国)支配下の東ヨーロッパ方面に侵入するようになった。
6世紀の中頃、ブルガール人はクブラトという人物をハンとして、アゾフ海の北岸からヴォルガ川下流域の草原地帯において部族連合国家を形成した。
しかしクブラトの死後、ブルガール部族連合は早くも分裂し、北方にはヴォルガ・ブルガール、西方にはドナウ・ブルガールが移住していった。原住地に残ったブルガール人たちは、アゾフ海沿岸を支配する部族連合国家を維持し、ヴォルガ・ブルガールやドナウ・ブルガールとの対比から大ブルガリアと呼ばれた。大ブルガリアの本拠地は、現在のアゾフ・ロストフの北方の草原にあった。
大ブルガリアは7世紀頃、西突厥の支配を脱して西進を開始したカフカス北麓のテュルク系遊牧民集団ハザールによって駆逐され、多くの部族民はハザール汗国に加わった、彼らは次第にハザール人と同化してゆき、10世紀にハザールが滅亡したのとともにほとんど解体した。なお、現在北カフカスのカバルダ・バルカル共和国に住むテュルク系民族のバルカル人がブルガール人の後裔であるという説もあるが、推測の域を出ていない。
クブラトの次男コトラグに率いられた部族集団はヴォルガ川を遡ってカマ川との合流地点に近いヴォルガ川屈曲部(現在のタタールスタン共和国周辺)に定住、農業と交易に従事するヴォルガ・ブルガールとなった。彼らはハザール可汗国の支配下に入るが、のちにアッバース朝と通行を結んでイスラム教を受容、ハザールの衰退とともに独立して王国を形成したが、13世紀にモンゴル帝国に征服されて滅亡した。ヴォルガ・ブルガールの人々はジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の領民となり、現在ヴォルガ屈曲部に住むテュルク系民族のヴォルガ・タタール人やチュヴァシ人はその後裔であるとされる。特にチュヴァシ人の話すチュヴァシ語は、テュルク諸語の中でもブルガール人の話していた言語の特徴を保持しているという。
一方、クブラトの三男アスパルフに率いられた一団は、黒海北岸を経てバルカン半島に進入、ドナウ川の下流域に定住した。この集団をドナウ・ブルガールという。彼らは南隣するビザンツ帝国と戦って現地のスラヴ人を支配する国家を形成し、680年にブルガリア帝国(ブルガール・ハン国)を建国した。ブルガール・ハン国のブルガール人たちは9世紀頃にキリスト教を受け入れ、次第にスラヴ人と同化して、ブルガリア人を形成していった。