ブルゴーニュ公国
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ブルゴーニュ公国(ブルゴーニュこうこく, Duché de Bourgogne)は、中世のフランス東部からドイツ西部にかけて存在したブルゴーニュ公(Duc de Bourgogne)の領地の一般的な名称。
1031年から1361年にはカペー朝の傍系が支配し、1363年から1477年にはヴァロワ朝傍系が支配した。ヴァロワ朝傍系時代に「公国」と呼ばれるのは、最盛期にはブルゴーニュの他、神聖ローマ帝国の領域内を含む現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルク、アルザス、ロレーヌにまたがった支配地を持ち、百年戦争(1337年-1453年)の際はイングランド側についてフランス王と対抗し、きわめて独立性が高かったためである。
シャルル突進公の死後、1477年にブルゴーニュはフランス王領に編入され、その他の地域は婚姻によりハプスブルク家に継承された。
歴史上、ブルゴーニュ公国が知られるのは、14世紀後半~15世紀半ば、ヴァロワ家4代のブルゴーニュ公のもと、宮廷に華やかな騎士文化が開花したことによる。この時代にブルゴーニュ公国は、欧州の経済的先進地域であったフランドル(現在のベルギー周辺)をも支配し、経済・文化の一大中心地であった。公国の首都はディジョン(現在はフランス国内)にあった。
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[編集] ブルゴーニュ公
他の時代のブルゴーニュ公についてはブルゴーニュ公一覧を参照。
- フィリップ豪胆公(大胆公・豪勇公とも。フィリップ・ル・アルディ Philippe le Hardi 1342 - 1404年、在位 1363 - 1404年)
- ジャン無怖公(無畏公とも。ジャン・サン・プール Jean sans peur 1371 - 1419年、在位 1404 - 1419年)
- 狂王シャルル6世の摂政権を巡って、オルレアン公ルイと対立した結果、ルイを暗殺しパリを支配するが、自らも王太子シャルル(シャルル7世)に暗殺された。以降、ブルゴーニュ派はイングランドと同盟して、シャルルとアルマニャック(オルレアン)派と戦い、百年戦争は新たな局面を迎えた。
- フィリップ善良公(フィリップ・ル・ボン Philippe le Bon 1396 - 1467年、在位 1419 - 1467年)
- 安定した統治を行った。金羊毛騎士団を創設し、騎士道文化が最盛期を迎えた。ファン・エイク兄弟などのフランドル派絵画や、ブルゴーニュ楽派の音楽はヨーロッパで最高水準のものとなった(北方ルネサンス)。1430年、ジャンヌ・ダルクを捕らえ、イングランド軍に引き渡した。
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- シャルル突進公(勇胆公、無鉄砲公、猪突公とも。シャルル・ル・テメレール Charles le Téméraire 1433 - 1477年、在位 1467 - 1477年)
[編集] ブルゴーニュ公国崩壊後の君主
- マリー女公(デュシェス・ド・ブルゴーニュ Marie, Duchesse de Bourgogne 1457 - 1482年、在位 1477 - 1482年)
- 父シャルル突進公の死後、フランス王ルイ11世の煽動により反乱が起こり、一時幽閉される。そこで婚約者マクシミリアンに救援を求め、結婚する。ブルゴーニュはフランス王領に編入されるが、ギネガテの戦いの勝利によりフランドル、ネーデルランドは確保する。マリーとマクシミリアンの共同統治となるが夫婦仲は極めて良く、共に領内を歴訪し支持を集める。しかしマリーは落馬事故にてあえなく落命する。ヴァロワ=ブルゴーニュ家男系が途絶えたため、2人の息子フィリップ美公が擁立され、公位と所領はその後は皇帝カール5世からスペイン・ハプスブルク家へと継承された。
[編集] 経済・文化の中心地
- フランドル地方の産業と貿易
- ヴァロワ系ブルゴーニュ公国の支配していたフランドルは、ヨーロッパの主力な輸出品であった毛織物の産地で、これを中心にした経済の一大中心地であった。
ルネサンスの文化は全般にイタリアが中心であったが、15世紀に絵画・音楽の分野ではイタリア以上の発展を示した。
- 絵画
- フィリップ善良公の頃、ヤン・ファン・エイク(1390年頃 - 1441年)は油彩画の技法を完成させた。代表作に「ヘント(ゲント)の祭壇画」がある。
- 音楽
- 音楽史では、ルネサンス音楽の発展で知られている。ギヨーム・デュファイ(1400年頃 - 1474年)はフランドルのカンブレ(現在はフランスの領内)で生まれで、イタリアに移って活躍した。1437年にカンブレへ戻ってからも多数の作曲を行い、デュファイを中心にブルゴーニュ楽派と呼ばれるグループが作られた。
- (のち、16世紀にはフランドル楽派)