プリンス自動車
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プリンス自動車工業株式会社(-じどうしゃこうぎょう-)は、かつて日本に存在した自動車メーカーである。
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[編集] 略歴
航空機メーカーを前身とする戦後設立の自動車会社で、特にその技術面において極めて先進的な試みを多く行ったことで知られている。しかしコストを度外視した技術偏重の社風や、中級車主力の車種構成故に、他メーカーとの競争力を欠いて経営難が続いた。
最終的には、1966年8月1日に日産自動車と合併(日産自動車による事実上の吸収合併)した。プリンス自体の経営難に加え、「外国車の輸入自由化による国内メーカーの潰し合いをさける」という通産省(当時)の方針に伴う指導が背景に存在した。またプリンスの最大出資者であるタイヤメーカーのブリヂストンにとっては、自動車用タイヤ生産拡大に際し、プリンス以外のメーカーとの取引支障を配慮せねばならなかった経営判断があったとも言われる。
なお、日本の皇室用御料車として試作車を除き7台が作られた「プリンスロイヤル」は、開発はプリンス自工によるものであるが、宮内庁に初めて納入されたのは日産合併後の1967年2月のことであった。
[編集] 沿革
第二次世界大戦中の航空機メーカーである立川飛行機および中島飛行機(荻窪)が前身である。
[編集] 電気自動車メーカー時代
- 1945年 石川島飛行機製作所を前身とする立川飛行機は終戦後から民生分野に進出を目論み、燃料事情の悪い時期であったため、バッテリーを搭載した電気自動車の開発を志す。高速機関工業(ブランドは「オオタ」)からシャーシ技術を導入、開発を進めた(戦前の有名小型車メーカーであったオオタ自動車は、戦時体制化で立川飛行機傘下となっていた)。
- 1946年 3月、自動車産業への転換申請。11月、オオタトラックベースの試作車「EOT-46」完成。同時に工場はアメリカ軍に接収、軍管理下におかれアメリカ極東軍の自動車修理工場とされることが決定。外山保をリーダーとする自動車部門は独立を決意する。接収された工場内の資材、機械設備を借り受けることが認められた。東京北多摩郡府中町の府中刑務所隣、日本小型飛行機グライダー工場跡で活動を開始。
- 1947年 立川飛行機がGHQ指令により企業解体。4月トラック「EOT-47」完成。6月、東京電気自動車として法人化(実質的な創立)。最初の市販形電気自動車を発表、工場地元の地名にちなみ「たま」号と命名。最高速度35km/h、航続距離65km。当時の電気自動車の中で群を抜いた性能で注目を集める。乗用車形とトラック形があった。搭載バッテリー開発は湯浅電池の協力を得た。
- 1948年 より大型化・高性能化を狙った新型車「たまジュニア」・「たまセニア」を開発。横置きリーフスプリングによる前輪独立懸架を採用。商業的成功で電気自動車市場をリードする存在となったが、さらに企業としての安定を図るため、外山の義父で自由党代議士でもあった画商の鈴木里一郎に依頼し、鈴木の顧客であったブリヂストン会長・石橋正二郎に出資を請う。以前より自動車に興味をもっていた石橋は検討の末、翌年出資をおこなう。
- 1949年 2月、石橋正二郎、鈴木里一郎が出資を行い、石橋は会長に就任。石橋の意向で鈴木里一郎が社長となる。以後は日産との合併まで、ブリヂストンおよび石橋家との関係が強くなる。11月、府中から三鷹に移転。同時にたま電気自動車に社名変更。車の名前と同じ社名とした。
- 1950年 朝鮮戦争勃発に伴う特需で、バッテリーの市場価格が高騰し、電気自動車が価格競争力を失う。ガソリン自動車生産への転換を企図し、11月、エンジン開発契約を旧中島飛行機 東京製作所(荻窪)および浜松製作所を母体とする富士精密工業と交わす。
- 1951年 たま自動車に社名変更。在庫の「ジュニア」「セニア」のボディとシャーシは高速機関工業でオオタ車用ガソリンエンジンを搭載してオオタ・ブランドで販売することで処分した。全株を保持していた日本興業銀行は富士精密工業が自動車に乗り出すことには賛成していなかった。このため、すべてを興銀から石橋が買い取ることとで解決される。これにより富士精密工業株主は日本興業銀行から石橋正二郎となり、また石橋自身が富士精密工業会長に納まることで、この後の合併の布石となっていく。
[編集] ガソリン自動車メーカー時代
- 1952年 当初からガソリン車として開発した初めてのモデルである1500cc車「AISH型乗用車」「AFTF型トラック」を発売。車名は当初「たま」と予定されていたが、当時の明仁皇太子が同年に立太子礼を行ったことから、これを記念して「プリンス」と命名。会長石橋の案とされ、響きの良さを狙った外国語車名採用の早い例。3月、ブリヂストン本社ビルにて展示発表会をおこなう。11月には、社名もプリンス自動車工業に変更。同年、プリンス自動車販売が設立される。
- 新開発の富士精密FG4Aエンジンは当時日本の小型乗用車用エンジン中最大の1500cc45PSで、石橋正二郎の自家用車・プジョー202の1200ccエンジンを参考に拡大設計したものであるが、以後10年以上に渡り改良を受けつつプリンスの主力エンジンとなった。AISH乗用車(プリンス・セダン)は4速シンクロメッシュ・ギアボックスやコラムシフト、油圧ブレーキや低床シャーシを備え、1952年当時もっとも進歩的な日本車の一つであった。もっとも前輪は固定軸であり、再び独立式となるのは1956年である。
- 1954年 プリンス自動車工業と富士精密工業を合併、存続社名を富士精密工業とする。
- 1957年 初代スカイライン発売。日本で初めて後輪懸架にド・ディオン・アクスルを採用した。
- 1959年 初代グロリア発売(1900cc。戦後の日本製乗用車としては初の普通車(3ナンバー)規格乗用車となる。なお1960年に5ナンバー車(小型乗用車)の規格が1500cc以下から2000cc以下に変更されたため、以後はグロリアも5ナンバーとなる)
- 1961年 社名を「プリンス自動車工業」に変更。
- 1962年 イタリアのジョヴァンニ・ミケロッティにデザインを依頼した「スカイライン・スポーツ」を発売。イタリア人デザイナーへのデザイン発注は日本でも極めて早い時期の試み。商業的には失敗で60台弱がハンドメイドされるに留まった。
- 同年、東京都下に村山工場を建設。テストコースをも備えた大工場で、以後の主力工場となる。
- 1963年 前年に発売されていた二代目グロリア(S40型)に、直列6気筒SOHCエンジン「G7型」(2000cc、105PS)を搭載した「グロリア・スーパー6」を追加。日本製量産乗用車として初のSOHCエンジン搭載車。以後競合他社も追随し、日本車においてSOHC機構の普及するきっかけとなる。
- 1965年 5月、日産自動車との合併計画を発表。当時の通商産業省の自動車業界再編計画と、プリンス自体の経営不振が背景にあったとされる。また、会長の石橋正二郎がタイヤメーカー・ブリヂストンの経営者でもあったため、他社へのタイヤ納入で苦慮し、タイヤをとるか自動車をとるかの苦渋の選択があったとも言われている。
- 1966年8月、日産自動車と合併する(日産自動車による事実上の吸収合併)。
[編集] 合併後
日産との合併に伴い販売部門は「日産プリンス自動車販売株式会社」となり、全国の日産プリンス店の統括会社として存続し、日産販売チャネル網とは一味違った独自の営業活動を展開した。後に、日産自動車本体と統合された。
- 1998年 中島飛行機(東京製作所、中島飛行機最初のエンジン工場だった)~またプリンス自動車の主力工場であった 後の日産自動車荻窪工場が閉鎖。
- 2001年 3月、元プリンス自動車 村山工場であった日産自動車村山工場が閉鎖(跡地は大型商業施設のダイヤモンドシティ・ミューなどに)。
- 2003年 日産初の軽商用車として「クリッパー」の名称が復活(三菱自動車工業からのOEM供給)。
- 2004年 プリンスから日産に引き継がれたグロリアが、姉妹車のセドリックとともに生産終了。これにより、プリンス自動車時代から続くネームシップは、「スカイライン」の車名のみとなった。
現在、その名残は「スカイライン」と、最近三菱自動車工業からのOEM生産ながら復活した軽貨物トラック・バン「クリッパー」の車名、系列販売会社の「日産プリンス」の各販売会社名、海運会社の「日産プリンス海運」の社名、および自動車専用船「第二ぷりんす丸」の船名、村山工場跡地の一部に整備された「プリンスの丘公園」に残るのみである。ちなみに、「日産プリンス海運」のファンネルマークには、プリンス自動車の「P」のマークが描かれている。
[編集] モータースポーツ
1963年5月、鈴鹿サーキットにて、第1回日本グランプリが行われた。日本において初めて大規模に行われた自動車レースと言える。
当時の自動車工業会の「車体を改造しない」という申し合わせにより、プリンスは無改造のスカイライン・スーパーにて参戦した。しかし、他社は実際には協定違反でエンジンやサスペンションを改造しており、プリンスは8位と惨敗に終わる。
激怒した石橋正二郎の叱責に対し、日本グランプリを担当していた中川良一常務は1年間の猶予を願って雪辱を誓い、翌年に向けて全社規模に及ぶプロジェクトを立ち上げることになる。中川を最高責任者として、エンジン実験課の青地康雄をワークスチーム監督、設計課の桜井真一郎をレース車開発チーフに据え、ほとんどのスタッフが市販車の開発と同時進行で取り組むことになった。
翌1964年5月3日の第2回日本グランプリ(GT-2クラス)向けに、スカイラインを車体延長して3連キャブ125馬力のG7型エンジンを搭載した「スカイラインGT」を開発した。鈴鹿での事前テストで、当時の国産車では最高となる3分を切るタイムを記録して、レース前から競合メーカーの脅威となる。7台の車両を用意するが、契約予算が底をつき契約ドライバーが足りなくなってしまう事態となった。苦肉の策として須田祐弘を「社員ドライバー」として採用(入社試験も受けさせた)。社員ドライバーは他にも殿井宣行、古平勝が参戦している。
このレースに、トヨタと契約しているレーサー・式場壮吉が急遽個人輸入したドイツのポルシェ904が急遽参戦してきた(トヨタ自動車によるプリンスの勝利阻止策とも言われている)。本戦でスカイラインGTはポルシェ904と激しいバトルを展開し、生沢徹の乗る41号車スカイラインが一時はトップに立つ。しかし僅か1周で抜き返され、敗れ去った。しかし砂子義一が2位、生沢が3位に入り、社員ドライバーも古平が4位、殿井が5位、須田が6位と完走11車(30車出場)の上位を独占した。
この「スカイライン伝説」の起源となったレースについては、以下のような「逸話」が伝えられている。第2回日本グランプリ直前、友人である式場から「ポルシェでGT-2クラスに出る」と聞かされた生沢は「もし抜いたら1周だけ前を走らせてくれ」と事前に要望して了解を貰っていたというのである。実際、2位に入った39号車の砂子は、後日「ポルシェより速い車(生沢車)が自分より下位になるのはおかしい」と回想している。
両者の談合説の根拠として、次のような事情が指摘されている。
- 式場のポルシェはマシンセッティングをする時間がないまま出場し、しかも予選中のクラッシュの影響でコーナー旋回に苦しむなどのハンディを抱えていた(事実、生沢車が式場車を抜いたのはヘアピンカーブの手前であった)。
- また生沢車が先頭に立っている間はフェアプレイに徹し、式場車を押さえつけるドライビングをしなかった(のち生沢は第3回日本グランプリで、砂子のプリンス・R380を勝たせるために後続のポルシェ906を抑える役回りを受け持ったが、この第2回日本グランプリで砂子が生沢を抜いて2位に上がった事を不服としたのが、プリンスワークス離脱の理由の一つになったともされる)。
しかし生沢自身は件の会話について「単なる冗談。実際のレースではそれどころではなかった。性能が違い過ぎた」と発言し、談合説を否定すると共に、「抜いてからは必死だったが、式場はあの時の冗談を覚えていて、1周だけ我慢してくれたのだと思う」とも述べている。また、生沢は自著において、「式場のポルシェに抜き返された後、ピットからポジションキープのサインが出ていたのに、砂子が接触しながら抜いていった」と記述しており、生沢が深追いしなかったのはピットの指示で、砂子がピットサインを見落としていた可能性もある。また式場は「周回遅れに手間取っていたら、生沢がヘアピンで2台まとめて抜いていった。すぐに抜き返すことも出来たが、『少し花を持たせてやるか』と思ってそのままでいたら、グランドスタンドの客が総立ちになった」と語っている。
1966年には、4バルブDOHC 225馬力のGR8エンジン、アルミボディのレーシングカー「プリンス・R380」を開発し、新規に開設されたばかりの富士スピードウェイに舞台を移した5月の第3回日本グランプリに4台が参戦。3度目にしてプリンスとしては最期の挑戦となる。強敵ポルシェ906に乗る滝進太郎を相手に、スタートで砂子がリードし生沢がブロックをするも一旦は先行される。しかし、途中給油のためのピットストップにおいて、給油装置を高い位置に設置することにより(重力給油)、ポルシェよりも30秒も速く給油を済ませ逆転する。ポルシェの滝は生沢の執拗なブロックに遭った上、給油もごく普通の方法で行ったので非常に手間取り、トップの砂子を追うため無理なペースアップを強いられる。結果として滝ポルシェは、この後クラッシュしてリタイア。砂子義一がその他の車を3周遅れにし優勝。プリンス・R380が2位と4位も獲得する。
このレースでポルシェカレラ6を駆った滝は、プロドライバーではなく好事家のアマチュアであり、元2輪GPライダーの砂子や若手ナンバーワンの生沢に比較すれば腕や度胸が劣っていたのも否めない。滝のカレラ6もメーカーが威信をかけたワークスマシンなどではなく、金さえ払えば誰でも購入可能な市販レーシングマシン。生沢による滝へのブロックなど、プリンス勢がチームワークを駆使したのに対し、滝はプライベーターで単独出場の身。もちろん資金力などの体制面でも、プリンスと滝では大きな差がある。その点を考えれば単純に「プリンスがポルシェに勝った」と表現するのは無理があるかも知れない。
日産合併で、プリンスのドライバー陣は解雇を予測していたが、日産側は彼らの技術を買って慰留し、R380でのレース活動は日産合併後も日産・R380として続けられた。
[編集] 開発した車
- EOT-47型トラック
- 乗用車たま(E4S-47)
- たまジュニア(E4S-48)
- たまジュニア 4ドア(E4S-49)
- たまセニア(EMS-48)
- プリンスセダン(AISH-I、AMSH-I、AISH-VI、AMSH-II)
- プリンストラック(AFTF-I)
- プリンスライトバン
- キャブオーバー(AKTG-I)
- BNSJ(1956年3月 第3回自動車ショウ参考出品)
- スカイライン(ALSH-I、S50D-1、S54R、S54B、S54A)
- スカイウェイ
- マイラー
- ニューマイラー(ARTH-I)
- クリッパー(AQTI-I)
- グロリア(BLSIP-I、S40D、S41D、A30、PA30)
- DPSK型乗用車
- スカイラインスポーツ(BLRL-3)
- スーパークリッパー
- スカイライン1900スプリント(R52、1963年東京モーターショウ参考出品)
- グランドグロリア(S44P)
- ホーマー(T640)
- マイラー(T440)
- R380
- ライトコーチ(T65系)
- 日産・プリンスロイヤル
[編集] その他
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