ヘンリー・アーノルド
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ヘンリー・ハーレー・アーノルド (Henry Harley Arnold, 1886年7月25日 - 1950年1月15日) はアメリカの軍人。第二次世界大戦中の陸軍航空隊総司令官であり、アメリカ空軍の礎を築いた功労者の一人。最終階級は陸軍元帥および空軍元帥。ハッピー (happy) を約めた“ハップ” (Hap) の愛称で知られる。
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[編集] 初期の経歴
ペンシルヴァニア州グラッドワインの軍人一家に生まれ、1903年に陸軍士官学校入学。騎兵科を志したが成績が足りず、1907年に同校を卒業した際には歩兵少尉に任官。フィリピン勤務を経て1909年にはニューヨークのジェイ駐屯地に配属される。騎兵科の転属願いを出すも却下されたアーノルドは、なんとか歩兵科を脱するために航空機パイロットの道を志すようになる。1911年より飛行訓練を始め、毎日4時間の訓練を2ヶ月間続けたのち、同年7月に民間のパイロット資格を取得。翌1912年には陸軍のパイロット資格も取得し、陸軍のパイロット第1号となった。
パイロットとして陸軍通信隊の操縦術教練部に配属されたアーノルドは、そこで6540フィートの高度記録を達成するが、同年7月にははじめての飛行事故を経験。当時は現在とは比較にならないほど航空機の安全性が低く、同僚のパイロットがこのころ相次いで事故死している。同年、卓抜な飛行実績に対しマッキー・トロフィーを授与されるが、11月にはパイロットとしての職を離れて陸軍通信部長副官となった。
1913年には結婚し、これにともないパイロット資格をいったん失う(当時は、独身者にのみパイロット資格があった)。再びフィリピン勤務となり、ここで後に陸軍参謀総長となるジョージ・C・マーシャルと知り合った。二人はすぐに友人となり、アーノルドは後々までマーシャルをサポートすることになる。
[編集] 第一次世界大戦期
1915年、第一次世界大戦勃発にともない大尉に任官し、ロックウェル基地の操縦術教練部に配属される。すでにパイロット資格を失っていたため、このとき再び資格取得のための訓練を受けねばならなかった。その後、パナマ勤務を経て1917年にはワシントンに呼び戻され、陸軍航空部勤務となる。このときあわせて、戦時昇進により大佐に任官している。1918年10月にはフランス行きを命じられるが、インフルエンザに罹ったために到着が遅れ、実戦に参加する前に終戦をむかえた。
[編集] 戦間期
1919年にはふたたびロックウェル基地勤務となり、少佐に任官。このとき、カール・スパーツ (初代アメリカ空軍参謀総長)、アイラ・エーカー (後の陸軍航空軍副総司令官) と知り合っている。1924年には陸軍航空部長メイソン・パトリック少将の参謀スタッフとなり、同時に陸軍産業大学に入学。しかし1924年、元陸軍航空副部長のビリー・ミッチェル大佐が反逆罪に問われ軍法会議にかけられた際には、アーノルドもカンザス州ライリー駐屯地に左遷されてしまう。
1928年にはオハイオ州フェアフィールド航空基地の操縦術教練部に復帰し、指揮幕僚大学にも入学。1931年には中佐として、第1航空団の本拠地であるカリフォルニア州マーチ基地に着任。これは彼にとって10年ぶりの昇進だった。1934年、10機のB-10爆撃機を率いてワシントンからアラスカ州フェアバンクスまでの18000マイルを航行した功績により、2度目のマッキー・トロフィーを授与され、准将となった。
[編集] 第二次世界大戦期
1936年、再びワシントンに戻り、陸軍航空隊 (Army Air Corps) の副司令官に任ぜられる。1938年には同司令官のオスカー・ウェストーヴァー少将が飛行機事故で死去。このため、アーノルドが陸軍航空隊司令官となり、あわせて少将に昇進した。
以後、第二次世界大戦への参戦に備えて航空隊の増強に力を注ぎ、航空機開発にあたっては民間企業や大学との協力体制を築き上げた。1941年7月、新たに編成された陸軍航空軍 (Army Air Force) の総司令官に着任し、同年12月には中将に昇進。1942年には大将となり、航空部門を代表して統合参謀長会議に加わった。1944年12月には元帥に叙されている。
[編集] 第二次世界大戦後
戦後は心臓発作にたおれ、1946年7月30日に退役。1947年には陸軍航空軍をもとにして新たに合衆国空軍が創設されるが、1949年、空軍創設の功労を讃えてアーノルドに空軍元帥の地位が与えられた。その後、空軍元帥まで昇った者はおらず、また陸軍と空軍の二つの元帥位を与えられたのは、史上アーノルドただ一人である。