ペトロの手紙一
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新約聖書 |
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ペトロの手紙一は新約聖書中の一書で公同書簡と呼ばれるものの一つ。『ペトロの手紙二』の扱いについては初代教会の時代から問題とされることが多かったが、第一の手紙に関しては問題もなくすんなりと新約聖書の正典におさめられた。
目次 |
[編集] 著者と成立時期
著者は自分自身を『イエスの使徒ペトロ』と名乗るが、近代以降の研究者は本書簡の著者はガリラヤ湖の漁師をしていたシモン・ペトロ本人とは思われないという見解で一致している。なぜなら、本書簡の洗練されたギリシア語がペトロその人と結びつかないことと、生前のイエスを知っていることを示す記述が一切ないからである。本書には旧約聖書からの引用が35箇所あるが、すべて『セプトゥアギンタ』(ギリシア語旧約聖書)からの引用である。実際のペトロは『セプトゥアギンタ』のような形の旧約聖書には親しんでいなかったと考えられている。アレクサンドリアのクレメンスなどはペトロのために書記として勤めたのがマルコであったという。
本書の著者に関する仮説の一つは、書簡の終わりに現れる「シルワノ」なる人物が著者ではないかというものである。5章12節には「忠実な兄弟シルワノによってこの短い手紙を書いています」とある。そのあとの部分で「バビロンにいる人々」とあるが、当時のキリスト教徒の間で(『ヨハネの黙示録』の記述から)「バビロン」といえばローマのことであった。このことから考えると、本書簡の成立時期は明らかに黙示録よりあと(90年~96年)ではないかと考えられる。
ある学者たちはこの書簡の著者はペトロでもシルワノでもなく、成立もドミティアヌス帝の時代(81年~96年)ではないかと考えている。なぜなら本書簡では迫害について言及されているが、迫害はペトロも殉教したネロ帝の時代まで起こっていなかったからである。
もしシルワノ本人が書いたのなら、もっと遅い時期の成立ということになる。156年に殉教したポリュカルポスおよびこの手紙に言及したパピアスから考えれば二世紀半ば以降という事になる。エイレナイオスとテルトゥリアヌスもペトロの第一の手紙に言及しているが、170年ごろのムラトリ断片の正典表には含まれていない。これは当時の西方でペトロの手紙一が受け入れられていなかったということである。しかし、ペトロの手紙一およびクレメンスの第一の手紙、ヘルマスの牧者の三つはローマ教会の優位にふれた最初期の書物であることを考えると、これが正典表からはずされているのは奇妙なことである。
[編集] あて先
本書簡は「各地に離散している人々へ」となっているが、ディアスポラに向けられているというよりは内容的には異邦人に向けられている。初めにあげられているのは小アジアの五州である。著者は迫害に耐えること(1:2-10)、聖なる生活を送ること(2:11-3:13)、キリストにならって忍耐と聖性を示すこと(3:14-4:19)、最後は指導者たちへの助言によって締めくくっている(5章)。
[編集] 「地獄」とペトロの手紙一
本書の記述で注目すべきものは「終わりのときに、死者にまで福音が告げ知らされ、肉において裁かれ、神のうちに霊によって生きるようになる」(4:6)というものである。このような章句は新約聖書の他の箇所には一切並行箇所が存在しない。この表現は後に使徒信条に「陰府にくだり」という箇所で書き込まれることになり、以降のキリスト教思想において「地獄」の存在根拠のひとつとされることになる。