ムハンマド・アリー・ジンナー
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ムハンマド・アリー・ジンナー(Muhammad 'Alī Jinnāh محمد علی جناح मुहम्मद अली जिन्ना, 1876年12月25日? - 1948年9月11日)は、インド・ムスリム連盟の指導者、独立パキスタンの初代総督。パキスタンでは建国の父として敬愛され、「偉大な指導者(Qā'id-i A'zam カーイデ・アーザム)」という政府によって認められた尊称で呼ばれる。
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[編集] プロフィール
[編集] 生い立ち
グジャラート系のホージャー派イスラム教徒(ムスリム)の子としてカラチに生まれ、ムンバイ(ボンベイ)で育った。1892年に宗主国のイギリスの首都であるロンドンに渡り、1896年にリンカーンズ・イン法律協会で弁護士資格を取得、ムンバイに帰国して開業した。
[編集] 政界へ
インド国民会議派党員であったジンナーは、1910年に中央立法議会議員として政界に入り、1913年ムスリム連盟に加入。ムスリム連盟を指導して国民会議派の共闘路線を確立するが、第一次世界大戦後国民会議派がマハトマ・ガンジーの反英抵抗運動に入るとこれに反対して国民会議派を脱退した。
[編集] パキスタン
1940年のムスリム連盟ラホール大会において、ジンナーはインド亜大陸のヒンドゥーとムスリムがお互いに異なった民族であると宣言(二民族論)し、ムスリムが多数を占める地域がヒンドゥーと別に独立することを目指す決議を採択させた。
1946年、ムスリム連盟の議員総会はデリー決議を行い、ムスリムが多数を占める6州が単一の主権独立国家パキスタンとして即時樹立されることをインド総督ルイス・マウントバッテンに要求した。1947年6月、総督はこれに屈してインド・パキスタン分離独立案を発表し、8月にイギリス国王を国家元首に頂く独立君主制国家パキスタンが成立しジンナーはその総督に就任した。翌1948年、ジンナーは病死し、カラチに葬られた。
[編集] 関連項目