ルイス・マウントバッテン
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ルイス・マウントバッテン (Louis Francis Albert Victor Nicholas Mountbatten 1900年6月25日 ウィンザー- 1979年8月27日)はイギリスの伯爵。ミルフォード=ヘイヴン侯ルイス・アレグザンダーの子で、ヴィクトリア女王の曾孫。ドイツのバッテンベルク家出身。海軍元帥。
[編集] 生涯
若い頃から傲岸不遜な性格と数々の噂話で有名であった。32歳の時、プリンス・オブ・ウェールズ(後のエドワード8世→ウィンザー公)と同格の三軍中将(格)に任ぜられた。血統背景からすれば、マウントバッテンの若年での高位任官はお約束事であり、これに対する批判もまた、お約束事であった。当然「能無し」などと見られがちであり、侮る将校も相当数いた。実際、戦闘の面では大いに不安があったが、マウントバッテンが発揮したのは、結果的には戦闘面よりもそれ以外の面であった。
第二次世界大戦が勃発するや志願して現役に復帰し、海軍少佐に任ぜられた。1942年8月19日にはノルマンディー上陸作戦のリハーサルとも言うべきディエップ港奇襲作戦を指揮。作戦そのものは大損害を蒙ったものの、後年「ディエップでひとりが戦死したために、Dデーでは10人が助かった」と回想している。
その後、東南アジア地域連合軍(SEAC)総司令官に就任。ビルマ戦線などで日本軍との戦いの総指揮を執った。この際に連絡将校としてマラヤ統一戦線との窓口になっていたのがマラヤ共産党の指導者陳平(Chin peng、王文華とも)である。彼はマウントバッテンとの交流から、大英帝国の敵でありながらイギリスから叙勲されている。ビルマでの一連の戦いが評価され、「ビルマのマウントバッテン」と称されるようになる。SEAC時代には情報戦を駆使した戦術を多用し、戦闘を進める一方で、戦後処理の方策も同時に研究させていた。対日戦終了後、シンガポールのシティ・ホールで第7方面軍司令官板垣征四郎を引見して降伏文書を交わし(この降伏文書は2005年12月に競売に掛けられ、360ポンドで落札された)、マウントバッテンの戦争は終わった。
東南アジア方面の処理が一段落した後、最後のインド総督に転じる。すでにインドでは自治は確定していたものの、宗教を理由とする民族対立が激化しつつあった。マウントバッテンは本国から「インドの統一を保ち撤退せよ」との命を帯びてインドに赴任したが、マハトマ・ガンジー、ジャワハルラール・ネルー、ムハンマド・アリー・ジンナーら指導者との会談を重ねていくうちに民族対立の現実を目の当たりにし、ジンナーにやや押し切られる形で1947年のインド・パキスタン分割独立への道筋をつけた。1948年には「軍は純粋に政治的な性格の裁判にかかわるべきでない」と述べ、東京裁判を事実上批判したこともある。
その後、地中海艦隊司令長官、第一海軍卿、国防参謀総長を歴任。退役後は自宅を維持費捻出のために一般公開するなどをしたが、1979年、アイルランド北西のドネゴール湾で停泊中のヨットを、IRA暫定派の仕掛けた爆弾によって爆破され、死亡した。
[編集] 人物
マウントバッテンは毛並みの良さや端正な顔立ちから国民的人気は高かったが、直接彼の指揮下にあった軍人の間では評判はサッパリな時期もあった。マウントバッテンは極端な神経質の性格を持っており、何をするにせよ膨大な人数のアドヴァイザー(その中には、素性が怪しい人物なども含まれていたという)抜きでは物事が上手く進められなかったとされる。その一方で、何でも口出ししないと気がすまない性格も持ち合わせており、実際に戦闘に従事する兵士や将校の中には、精神的に参ってしまう者も結構いたという。
しかしながら、マウントバッテンの一種の華やかさは、困難な地域の戦場にはかえって向いており、これが東南アジアでの対日戦勝利につながったと言える。この方面の連合軍指揮官には、アルバート・ウェデマイヤーやジョゼフ・スティルウェルなど一癖も二癖もある個性的な軍人が多く、そういう個性派の人物の上に立つ人材としても優れていた。
私生活の面ではポロを嗜み、またチャーリー・チャップリンとも親交を結んだりもした。また、1956年に製作された映画「戦艦シュペー号の最後」では顧問格として参加し、自己の権限で海軍の演習をラプラタ沖海戦のごとく撮影させたこともある。
[編集] 参考文献
- アーイシャ・ジャラール『パキスタン独立』勁草書房、1999、ISBN 4-326-39897-3
- リチャード・オルドリッチ"Intelligence and the War against Japan"2000