モブツ・セセ・セコ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
![]() |
|
ザイール2代大統領
|
|
任期: | 1965年 – 1997年6月17日 |
---|---|
|
|
出生日: | 1930年10月14日 |
生地: | ベルギー領コンゴ リサーラ |
死亡日: | 1997年9月7日 |
没地: | モロッコ |
政党: | 不明 |
配偶: | マリー・アントワネット・モブツ |
モブツ・セセ・セコ(Mobutu Sese Seko Nkuku wa za Banga 1930年10月14日 - 1997年9月7日)は ザイール(現コンゴ民主共和国)の軍人、政治家、大統領(在任期間1965年から1997年)。
目次 |
[編集] プロフィール
1930年10月14日モブツは、ベルギー領コンゴのリサーラで生まれた。当時の名前はジョゼフ=デシーレ・モブツ(Joseph-Désiré Mobutu)である。
[編集] コンゴ独立
1960年6月にベルギーからコンゴ民主共和国として独立し、モブツは国軍参謀総長に就任した。カタンガ州をめぐる国内の状況の悪化に伴い、1960年9月コンゴ動乱初期のクーデターで実権を掌握。カサヴブ大統領と手を結び、パトリス・ルムンバ首相を逮捕。1961年政権を文民に移譲する。
[編集] 大統領就任
1965年再度クーデターを実行し、政権を掌握し大統領に就任。国名を「コンゴ」から「ザイール」に、首都のフランス語の呼び名の「レオポルドヴィル」を「キンシャサ」に改称するなど「ザイール化政策」を推進する。1972年に名前を「モブツ・セセ・セコ」に改名。対外的には、東西冷戦を利用して、アフリカにおける反共の砦を以て任じ、その見返りに西側先進国からの支援金を一手に引き受けて、そのほとんどを着服した。
モブツの不正蓄財は総額およそ50億ドルといわれ、西欧諸国、西アフリカ、モロッコ、ブラジルなどに、豪華別荘や古城・豪邸を保有し、隠し銀行口座を設けた。モブツに私物化された政権を揶揄する言葉として、モブツの個人資産は、ザイール共和国の対外債務に等しいといわれた。国内では、中央アフリカとの北部国境付近のグバドリテ高原に、失脚間際に逃げ込んだ自家用飛行場つきの巨大な宮殿を建設した。この宮殿は「ジャングルのヴェルサイユ宮殿」と呼ばれた。
[編集] 内戦激化
しかし、1996年8月に前立腺癌を患ってスイスの病院に入院したあたりから事態は変化していく。ザイール国内の不安定要因であった東部国境付近のフツ人とツチ人の民族紛争は、遂にザイール領内のツチ系最大勢力「バニャムレンゲ人」の大蜂起に発展した。10月にはそれに乗じて人民革命党のローラン・カビラが反政府勢力を結集してコンゴ・ザイール解放民主勢力連合(AFDL)を結成、ツチ人の軍事力を背景にキンシャサに向かって進撃を開始した。
武装蜂起当時、モブツは南フランスで静養中で1997年5月まで帰国せず、AFDL軍は、ザイール全土の約4分の3を制圧した。AFDLがキンシャサに迫ったので自国民の保護を念頭にアメリカ、フランス、イギリスや、国連などが調停工作に乗り出す。
[編集] 亡命・死去
5月7日から8日にガボンで、ザイール情勢を協議するため「中部アフリカ仏語諸国7ヶ国首脳会議」が開催され、モブツも出席した。モブツは、本会議で、健康上の理由で次期大統領選挙には出馬しないことを確認する声明を発表した。
5月16日、キンシャサに戻ったモブツは突然北部のグバドリテにある宮殿に逃れ、国会議長・モンセングォ司教率いる内閣に権力が移譲され、モブツ大統領は一切国政に関与しない旨の発表をする。5月17日AFDL軍はキンシャサに入城した。カビラ議長はルブンバシから「コンゴ民主共和国」の樹立と、国家元首就任を宣言した。
5月18日にモブツはモロッコのラバトへ向けて出国し、1997年9月7日に亡命先のモロッコで死去した。66歳。
[編集] 関連項目
カテゴリ: コンゴ民主共和国の政治家 | 独裁者 | 1930年生 | 1997年没