ユグノー戦争
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ユグノー戦争(-せんそう 仏:Guerres de religion)は、16世紀後半のフランス王国国内を二分した宗教戦争である。1562-1598年にかけて断続的に8回の戦闘が起こった。フランス宗教戦争とも。
[編集] 前史
ドイツに始まった宗教改革運動は各国に広まったが、ジャン・カルヴァンの思想がフランスでも勢力を持ち、改革派(プロテスタント)はカトリック側から「ユグノー」と呼ばれた。ユグノー(huguenot)という言葉はドイツ語のEidgenosse(アイドゲノッセ、盟友の意味)から生まれた蔑称である。
プロテスタントには一部貴族が加わり、弾圧にもかかわらず、勢力を広げていった。
1560年、プロテスタントは、弾圧側の中心であったギーズ公フランソワを襲い、王族らを奪取しようとしたが、計画は事前に漏れていたため、実行者は捕らえられ、残酷な処刑が行われた(アンボワーズの陰謀)。これは摂政カトリーヌ・ド・メディシスが、ギーズ公の勢力を殺ぐためプロテスタントを利用しようとして失敗したものといわれる。
1562年、カトリーヌとシャルル9世は宰相ミシェル・ド・ロピタルとともに両派の融和を図り、プロテスタントの集会や私邸内での礼拝を認める1月勅令(フランス初の信教の自由に関わる法令)を出したが、宗教上の対立を留めることができず、まもなく内乱が勃発した。
[編集] 宗教戦争
1562年、ヴァシーでプロテスタントの虐殺事件が起こり、これ以降ナントの勅令(1598年)までの内乱状態を一般にユグノー戦争と呼んでいる。およそ36年にわたって断続的に戦闘が行われ、8期に分けることが多い。
- 第1次(1562–1563)
- 1562年3月、ギーズ公フランソワがヴァシーでプロテスタントを多数虐殺し、これ以後、内乱状態となった。ギーズ公を中心にしたカトリック側はパリを拠点とし、コリニー提督を中心にしたプロテスタントはオルレアンを拠点として、各地で戦闘を行った。1563年、ギーズ公フランソワが戦死。プロテスタントに一定の信仰の自由を認めるアンボワーズの勅令が出され、休戦となった。
- 第2次(1567–1568)
- 1567年、ブルボン家のコンデ公がシャルル9世の奪取を図り、失敗。これをきっかけにプロテスタントが蜂起してパリを包囲。シャルトルを勢力下に置いた。1568年にロンジュモーの和議。融和政策を進めてきた宰相ロピタルは罷免された。
- 第3次(1569–1570)
- 1568年、コンデ公やコリニー提督への襲撃計画があり、プロテスタントは反カトリックのイギリスと結んでラ・ロシェルに篭城して戦った。コリニー提督は反逆罪とされ、財産没収の処分を受けたが、1570年のサン・ジェルマン・アン・レーの和議により、判決は取消され、コリニーが宮廷に復帰した。
- 第4次(1572–1573)
- 1572年8月、カトリック側がコリニー提督をはじめプロテスタントおよそ4000人を大量虐殺(サン・バルテルミの虐殺)、内乱状態になる。1573年にブーローニュの和議。
- 第5次(1575–1576)
- 1574年にシャルル9世が死去し、アンリ3世が即位。1575年9月、王位継承権を持つアランソン公(アンリ3世の弟)がルーブル宮殿から逃亡し、プロテスタントと結び、フランス西南部に勢力を持った。また、1576年、幽閉されていたナヴァル公アンリがナヴァル公国に逃亡、プロテスタントに再改宗した。1576年、アンリ3世とアランソン公はボーリューの和議を結び、三部会の招集を約した。和議の内容はプロテスタントに有利であったため、王の政策に対する不満が高まり、ギーズ公を中心に反王権も辞さないカトリック同盟が作られることになった(1576年)。
- 第6次(1576–1577)
- 1576年、全国三部会が開かれたが、カトリック勢力が多数を占め、信教の自由の項目は破棄された。アランソン公は一転してプロテスタントの拠点を攻撃し、多数の住民を虐殺した。1577年、ベルジュラックの和議が結ばれた。
- 第7次(1579–1580)
- (恋人たちの戦争)。1580年、フレックスの和議。
- 第8次(1585–1598) 三アンリの戦い~アンリ4世即位
- 1584年、王位継承権を持つアランソン公が死去し、ブルボン家のナヴァル公アンリが王位継承者となった。1585年以降、アンリ3世とカトリック同盟のギーズ公アンリ、プロテスタントのナヴァル公アンリの3者が争う状況となった(三アンリの戦い)。
- パリではギーズ公を支援するカトリック同盟が勢力を持ち、カトリックとプロテスタントの間で不穏な状況となった。1588年5月、王位継承を狙うギーズ公がパリに入ったのに対して、アンリ3世が軍隊を集めると、市民はバリケードを築いて対抗した(バリケードの日)。市民の支持を失ったアンリ3世はパリを脱出し、シャルトル、ルーアンなどへ移った。
- 12月にアンリ3世の刺客がギーズ公とその弟のルイ枢機卿を暗殺。カトリック同盟に対抗するため、アンリ3世とナヴァル公アンリは提携した。1589年8月、熱狂的なドミニコ会士によりアンリ3世も暗殺され、ヴァロア朝は断絶した。
- フランスの王位継承法によってナヴァル公アンリ(アンリ4世)は王位を継承することになったが、カトリック同盟はこれを認めず、ブルボン枢機卿(アンリ4世の父アントワーヌの弟)を擁立した。アンリ4世は同盟に対する勝利を重ねて軍事的優位に立つことに成功したが、肝心のパリを陥落できなかった。とはいえ、包囲戦により多数の餓死者が出たため、次第にカトリック同盟に対する反感や厭戦気分が高まった。1593年7月、アンリはカトリックへの改宗を発表。翌年正式に戴冠式を行い、パリに入った。さらに1598年にナントの勅令を公布。同勅令はカトリックをフランスの国家的宗教であると宣言しつつも、プロテスタントにカトリックと同等の権利を認め、フランスにおける宗教戦争を終息させた。
ユグノー戦争は純粋な宗教上の対立ではなく、王権を中心とした勢力争いに宗教上の名目が結びついたことで、事態が一層混乱したものである。特に内乱後期は権力闘争の側面が濃厚となった。従って、カトリック対プロテスタントという宗教上の構図のみでは捉えることができない。また、カトリック側をカトリック国スペイン(フェリペ2世)やローマ教皇が支援し、プロテスタント側をイギリス王家・ドイツのルター派諸侯が支援するなど、国外の状況も複雑にからんでいた。