ライナー・マリア・リルケ
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ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke, (1875年12月4日 - 1926年12月29日) は、20世紀を代表するオーストリアの詩人、作家、評論家。独特の言語表現による詩は、ドイツ詩に新たな一面を切り開いた。また独自の宗教観や時代に対する不安や苦しみといった概念は、20世紀を象徴するようにも捉えられている。
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[編集] 生涯
プラハの生まれ(現チェコ領。当時はオーストリア・ハンガリー帝国の領土内)。当地は、ドイツ語文化圏から見ればかなり外れの街でプラハの街は、スラブ人・ドイツ人・ユダヤ人が鼎立していたところでもあり、ドイツ人は不利な立場になりつつある街であった。またこの街ではキリスト教の新旧勢力の衝突の場でもあった。このプラハの街で生まれた事はリルケの独特な観点を生み出したものともいえる。陸軍学校を経て、19歳に処女詩集「いのちと歌」を刊行。プラハ大学ついでミュンヘン大学に学ぶ。詩や散文を多く執筆。22歳のとき、作家ルー・ザロメを知る。ザロメの後を追うように、ベルリンへ行き、ベルリン大学で学ぶ。ルーと共に、ロシアやイタリアへ旅行。26歳の時、クララ・ヴェストホフと結婚。しかし、家庭は離散状態であった。27歳の時からパリでの生活が始まり、31歳の時に彫刻家オーギュスト・ロダンの秘書になる。ロダンの評論を書き上げた。しかしロダンと不和を生じ、再び旅に出る。35歳の時、アフリカ・エジプト旅行。この年に「マルテの手記」が完成。39歳の時、詩人アンドレ・ジッドとピアニストマクダ・フォン・ハッテンベルクを知る。1914年に第一次世界大戦が起こり、兵役へ。この体験は、やがて不安や苦しみ・虚無などの概念としてリルケの作品に表れるようになる。1919年にスイスへ旅行。1921年に詩人・ポール・ヴァレリーの詩に感動し、フランス語での詩作を多くするようになる。その後晩年を過ごすことになるミュゾットの館へ。最晩年にはヴァレリーと出会う。1926年に白血病の症状が出た。年末に体調を崩し、12月29日に死去。51歳であった。
[編集] 作品
リルケの邦訳は、多くの出版社から出されており比較的入手しやすい。全集も出されている。(弥生書房など。)
- マルテの手記(小説)Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge.
- 神さまのお話(小説)Geschichten vom lieben Gott.
- ロダン(評論)Auguste Rodin
- ドゥイノの悲歌(詩集)Duineser Elegien
- オルフォイスへのソネット(詩集)Die Sonette an Orpheus
- 新詩集(詩集)Neue Gedichte
他
[編集] 外部リンク
[編集] 関連項目
- ドイツ詩
- ドイツ文学