ラッセル・アレン
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ラッセル・アレン(Russell Allen、1971年7月19日-)は、カリフォルニア州ロングビーチ出身のボーカリスト。現在、アメリカのプログレッシブ・メタル・ネオクラシカルメタルバンドのシンフォニーXのメンバーとして活躍している。
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[編集] 経歴
- 5歳の頃に初めて聴衆の前で歌唱を披露した。
- 幼少期は、ウィリー・ネルソンなどのアウトロー・カントリー・ミュージシャンを好んでいた。
- ハイスクールに進学するとヘヴィメタルやハードロック、プログレッシブ・ロックに傾倒するようになった。アイアン・メイデン、ディオ(レインボー)、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、ピンク・フロイドなどを好み、アマチュア・バンドでライブをこなしていた。
- ヘヴィな音楽興味を持つ傍ら、地元のボーカルグループではサイモン&ガーファンクルなどのポピュラー音楽も歌っているなど、幅広い音楽をハイスクール時代に体験した。
[編集] シンフォニーXへの加入
1994年、シンフォニーXは、1stアルバム「Symphony X」を作成したが、ボーカリストのロッド・タイラーは、音楽性の不一致を理由に脱退を表明した。シンフォニーXはニューアルバムを作成するため、タイラーと元ベーシストのトーマス・ミラーが中心となって後任ボーカリストの候補をリストアップしていた。この時点ではまだラッセルは後任ボーカリストの中に名を挙げてはいなかった。 しかし、1995年にラッセルとバンドは大きな転機を迎える事となる。ラッセルは、同年ニューヨーク市で開かれたレイ・ギランの追悼コンサートに参加していた。そのパフォーマンスを見てラッセルの事を気に入ったトーマスが、ギタリストのマイケル・ロメオにラッセルの力量について話し、ロメオもラッセルに興味を抱き、オーディションを行った。 その結果、間もなくシンフォニーXはラッセルに後任ボーカルとしての加入を打診した。ラッセルは当初、シンフォニーXのネオクラシカルでありプログレッシブな独特な音楽性に戸惑いを覚えたが、ロメオや他のメンバーの才能に感銘を覚え加入を決めた。 ラッセル加入後の2ndアルバム「The Damnation Game」は、1stアルバムから完成度が格別に上がり、日本や欧州のコアなメタルファンの間で話題となり、シンフォニーXはより認知されるようになった。1997年には最高傑作として名高い3rdアルバム「The Divine Wings of Tragedy」で彼らは一般のメタルファンにも大きな旋風を巻き起こし、1998年に続く4thアルバム「Twilight in Olympus」を作成し、これに伴うツアーで初来日を果たし、ラッセルはライブで迫力のパフォーマンスを見せ、日本のファンを沸かせた。続く「V」「The Odyssey」でも変わらず歌心溢れる歌唱を披露している。
[編集] ボーカリストとしての特徴
- ラッセル・アレンの歌唱として特徴的なのが、往年のロニー・ジェイムス・ディオを彷彿させるような、中低音域でのパワフルなボーカルと、高音域でのハリのある歌い回しである。声量も豊かで、感情移入も素晴らしい。また、シンフォニーXの楽曲にドラマ性を生み出す面でも重大な活躍をしている。
- ライブにおいてもオーディエンスの煽り方が上手で、一歩間違えば「テクニック自慢大会」になってしまう可能性のあるシンフォニーXの音楽を、ロックバンドのライブとしてのテンションを維持するパフォーマーとしての才能も見逃せない。マイケル・ロメオと共にバンドのフロントマンであり続けるカリスマ性も評価すべきである。
- 余談であるが、ラッセルとロメオは共にがっしりとした体格で上背もあり、ステージ上で2人が並んだときは相当な迫力がある。
[編集] シンフォニーX以外のプロジェクト
- 2004年にダニエレ・リヴェラーニのロック・オペラ・プロジェクトにマーク・ボールズ、エドゥ・ファラスキら数名とゲスト参加した。
- 2005年に、元マスタープランのヨルン・ランデとラスト・トライブのマグナス・カールソンと組んだプロジェクト、アレン・ランデを結成。1stアルバム「The Battle」で完成度の高いハードロックを聴かせる。
- 同年に、アトミック・ソウル名義でソロアルバムを発売。野太い歌唱でストレートロックを聴かせる。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Symphony X's official website - バンドの公式サイト(英語)
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