ピンク・フロイド
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ピンク・フロイド (Pink Floyd) は、イギリス出身のプログレッシブ・ロック・バンド。
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[編集] スタイル
実験的な音楽性やスペクタクル性に富んだライブ、現代社会における人間疎外や政治問題をテーマにした文学的・哲学的な歌詞で人気を博した。芸術面で高い評価を得ながらメガ・セールスを記録した稀有なバンドである。クラシックやジャズの素養を持った技巧派の奏者が多いプログレッシブ・ロックの中にあって、ブルースを出発点とする(結成当初はブルース・バンドだった)彼らの演奏技術は細かい符割りや変拍子とは無縁であるが、その音楽は独自の浮遊感・陶酔感を湛えている。
1973年発表のアルバム『狂気』は、芸術性と大衆性を高い次元で融合させ、商業的にも成功した金字塔的な作品であった。この成功が余りに巨大であった為、以降彼らは新作を制作する度に大変な重圧と戦うこととなる(そんな中で、『炎~あなたがここにいてほしい』や『ザ・ウォール』といった名盤を残している)。内省的なテーマを扱い、前衛的な要素も取り込みながら、常識外れのセールスを記録したこの作品は、プログレッシブ・ロック(或いは、パンク・ロック以前の黄金時代のロック全般)の一つの到達点・飽和点とも言える。
[編集] バイオグラフィー
[編集] シド・バレット時代
- 1965年、建築学校(リージェント・ストリート・ポリテクニック、現ウェストミンスター大学)の同級生であったロジャー・ウォーターズ(B・Vo)、リチャード・ライト(Kd・Vo)、ニック・メイスン(Dr)の3人に、ウォーターズの旧友であるシド・バレット(G・Vo)が加わり、ロンドンで結成された。サイケデリック全盛の時代にアンダーグランド・シーンで活躍し、徐々にその認知度を高めていく。当初はシグマ6やメガデスと名乗っており、その後はピンク・フロイド・サウンドへと改名された。バンド名の由来はバレットがピンク・アンダーソンとフロイド・カウンシルという二人のブルース・ミュージシャンから拝借したもの。最終的にマネージャーの進言によりピンク・フロイドというバンド名に落ち着いた。
- 1967年、シド・バレット作のシングル「アーノルド・レーン」でデビューし、いきなり全英トップ20を記録。歌詞の内容からBBCでは放送禁止に指定されたが、各メディアから絶賛された。続くセカンド・シングル「シー・エミリー・プレイ」(当初の邦題は「エミリーはプレイガール」)がトップ10入りするヒットを記録する。
- 同年にファースト・アルバム『夜明けの口笛吹き』(当初の邦題は『サイケデリックの新鋭』)をリリース。このアルバムをレコーディングしていた時、ちょうど隣のスタジオでビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を制作していた。ピンク・フロイドのレコーディングの様子を窺いに来たポール・マッカートニーはバンドの音楽を耳にし、「彼らにはノックアウトされた」と語ったという逸話が残っている。
- しかし、バンドのリーダー的存在だったバレットが重度の麻薬中毒に陥り、活動に支障をきたし始める。翌1968年には、彼を補う形でデヴィッド・ギルモア(G・Vo)が加わり、セカンド・アルバム『神秘』をリリースする。このアルバムのレコーディング中にバレットは正式に脱退し、1969年には4人編成に戻る。中心メンバーであったバレットが抜けたことにより、バンドの行く末を不安視する声もあったが、見事にその危機を乗り越えた。
[編集] プログレッシブ・ロック全盛期
- バレット脱退後のバンドはサイケデリック・ロックから脱却し、独創性の高い音楽作りを目指すようになる。それまでの直感的な即興音楽ではなく、建築学校出身という強みを生かした楽曲構成力に磨きをかけていく。
- 1970年には5作目のアルバム『原子心母』が初の全英1位を獲得し、トップ・バンドとしての地位を確立した。その後も『おせっかい』や『雲の影』等のヒット作を立て続けに発表していく。キング・クリムゾンやイエスと共にプログレッシブ・ロックの中心的バンドという位置付けを獲得する。
- また、ウォーターズ在籍時には1971年と1972年に来日公演を行っている。72年のライブでは、まだ未完成だった『狂気』を披露している。
- 1973年、ロック史に残る傑作『狂気』を発表、初の全米1位を記録した(イギリスでは最高2位)。このアルバムはビルボード・チャートで15年以上(連続591週、トータル741週)に渡ってランクインするというギネス記録を打ち立てた。現在のところ、全世界で3000万枚以上を売り上げている。
- 1975年に久々となる新作『炎~あなたがここにいてほしい』を発表。全英・全米1位を記録。『狂気』の成功の余韻が響く中、内省的な楽曲内容に賛否が分かれたが、現在では代表作にひとつとなっている。
[編集] ロジャー・ウォーターズ時代
- 『狂気』以降はウォーターズが全収録曲の作詞を行うようになる。また、1977年の『アニマルズ』以降は、ほぼ全曲を単独で作曲。彼の内省的かつ痛烈な社会批判を含む歌詞は、この時期の最大の魅力の一つであったが、彼が強力なリーダー・シップを執ったことで、統一感のある作品が生み出されていく。一方、彼の高圧的な態度はバンドに不和をもたらすこととなる。
- 一方で『アニマルズ』のリリース後、ウォーターズによる独裁的な状況に不満を持つメンバー達はソロ活動を始める。この頃から既にバンド内は空中分解状態にあった。メンバーがソロ活動を行っている間、ウォーターズは黙々とピンク・フロイドの曲作りを進めていた。
- 1979年にリリースされたコンセプト・アルバムの2枚組大作『ザ・ウォール』は記録的な大ヒットとなる。続いて行われたコンサートでは、演奏途中に、聴衆とバンドの間に発泡スチロール製のレンガを積み立てていき、やがて両者を完全に遮断、クライマックスでその壁が崩れ落ちるという趣向の空前の規模のステージを演出し、大評判となった。1982年には、アルバムのストーリーをもとにアラン・パーカー監督により映画化され、後にライヴエイドの発起人となるボブ・ゲルドフが主演した。
- しかし、ウォーターズと対立していたライトが『ザ・ウォール』制作中に正式にバンドを脱退している。その後の「ザ・ウォール・ツアー」にはサポート・メンバーとして参加している。その為、同ツアーで出た莫大な赤字に対する処理に追われることは無かった。また、1987年には正式にバンドに復帰している。
- 1983年、ウォーターズ在籍時としてはラスト・アルバムとなる『ファイナル・カット』をリリース。直後にウォーターズはソロ・アルバムを発表し事実上の脱退状態になり、1985年には正式に脱退を表明。一時、バンドは解散状態となる。
[編集] ウォーターズ脱退と再結成
- 1986年、ウォーターズ正式脱退後にギルモアとメイスンによるフロイド再編成の動きに対し、ウォーターズは命名権を争う裁判を起こす。その後、ギルモアとメイスンが売上げの一部をウォーターズに支払うという条件で和解している。
- 1987年、ウォーターズを除く編成による新生ピンク・フロイドとしてアルバム『鬱』をリリースする。このアルバムは全米・全英3位の大ヒットとなり、その後のワールド・ツアーも大成功を収める。この時のライトはゲストとして『鬱』の制作に参加していたが、その後のワールド・ツアーより正式メンバーとして復帰。
- 1992年、ギルモア参加以降のアルバムを集めた9枚組ボックス・セット『シャイン・オン』をリリース。
- 1994年、久々の新作『対/TSUI』をリリース。全米・全英ともにチャート1位を獲得。その新作を引っ提げて行われた「対ツアー」は、音楽史上でも最大規模のコンサートとなった。翌1995年には同ツアーを収録したライブアルバム『P.U.L.S.E』をリリース(同タイトルのビデオ、レーザーディスクもリリースされた)。
- 1996年、米ロックの殿堂入り。ギルモア、ライト、メイスンが参加する。以降、再び活動を休止。
- 2000年になって、1979年発表の『ザ・ウォール』に伴うツアーの模様を収録したライブアルバム『ザ・ウォール・ライブ:アールズ・コート1980~1981』を発売。
- 2001年にはベストアルバム『エコーズ~啓示』をリリース。ウォーターズを含めた4人で選曲が行われ、ピンク・フロイドにとって初と言ってもいいベスト盤となった。全英・全米ともに2位を記録し、相変わらずの人気を示した。メンバーの和解による再結成の期待が高まったが、再びバンドとしての活動が無い時期が続く。
- 2003年、長年ピンク・フロイドのマネージャーを務めたスティーヴ・オラークが死亡。葬儀の際にギルモア、メイスン、ライトが「デブでよろよろの太陽」と「虚空のスキャット」の2曲を演奏する。
- 2005年7月2日に行われたアフリカ貧困撲滅チャリティー・イベント「LIVE 8」では、ウォーターズを含めた4人によるラインナップで突如再結成を果たし、復活ライブを披露。同イベントでも屈指の反響を得た。その後しばらくして、ウォーターズを加えた形で再始動するとの報道も流れていたが、ギルモアはこれをキッパリと否定している。この幻のワールド・ツアーに対しては200億円を用意するというオファーもあった。
- 2005年、英ロックの殿堂入りを果たす。授賞式にはギルモアとメイスンが参加。ウォーターズは滞在先のローマから中継で参加。ライトは目の手術のため不参加。
- 2006年7月7日、かつてのリーダーであったシド・バレットが死去。メンバーから追悼のコメントが寄せられた。バレット死去に際して再結成の噂も聞かれたが、こちらも実現はしなかった。
- 同年、ギルモアの新作発売に伴うツアーにライトが参加。また、ウォーターズのツアーにはメイスンが数回参加して活動している。5月31日には、ギルモアのロンドン公演にメイスンがゲスト出演していることも確認されている。実は、この公演でギルモア側からウォーターズにもゲスト参加の要請もあったが、ウォーターズ自身のツアー・リハーサルに専念するとの理由で参加は無かった。
- 同じく2006年、『P.U.L.S.E』のDVD化(『驚異』という邦題が付けられた)に伴い、ギルモア、ライト、メイスンが揃って発売記念イベントに参加。
[編集] エピソード
- ピンク・フロイドのアルバム・ジャケットを手がけているデザイン・チーム「ヒプノシス」のリーダーであるストーム・ソーガソンは、ロジャーとシドの高校時代からの仲間。『原子心母』や『狂気』などのアルバム・ジャケットは彼の代表作となっている。
- シド・バレットの後釜のギタリストとしてジェフ・ベックを加入させるという話があった。実際にジェフ・ベックにコンタクトが取られたが、折り合いが付かず、デヴィッド・ギルモアが加入することになった。選ばれた理由は「ウマが合ったから」とのこと。
- そのデイヴィッド・ギルモアは、フロイド加入以前にモデル活動をしていたことがある。あくまで金稼ぎのためにこなしていた程度らしい。
- 2005年のLIVE 8出演の際、ロジャーは「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール Part II」を演奏することを提案したが、デイヴがこれを拒否した。歌詞の一節"We don't need no education"がアフリカへ向けるメッセージとしては不適当だったからだと、後にインタビューで語っている。
- ロジャー・ウォーターズ曰く、バンド内では常に「建築家のロジャーとニック」vs「音楽家のデイヴとリック」という構図になっていたらしい。こうしたコンセプト志向とサウンド志向の対立が傑作を生み出していたとも言える。
- ロジャーの母親は共産党員だったが、ニックは両親とも共産党員だった。しかし、ニック自身はそれほど左翼思想に傾倒することはなかった。
- デビュー間もない頃、ピンク・フロイドとジミ・ヘンドリックスは一緒にツアーに出ていたことがある。彼らはお互いにミュージシャンとして認め合うコメントを残している。特に、ジミはシド・バレットを高く評価していた。
[編集] メンバー
第一期1967~1968 『夜明けの口笛吹き』
- シド・バレット Syd Barrett ...Guitars & Vocals
- ロジャー・ウォーターズ Roger Waters ...Bass & Vocals
- リチャード・ライト Richard Wright ...Keyboards & Vocals
- ニック・メイスン Nick Mason ...Drums & Percussions
第二期1968 『神秘』
- シド・バレット
- ロジャー・ウォーターズ
- リチャード・ライト
- ニック・メイスン
- デヴィッド・ギルモア David Gilmour ...Guitars & Vocals
第三期1968~1979 『モア』~『ザ・ウォール』
- ロジャー・ウォーターズ
- リチャード・ライト
- ニック・メイスン
- デヴィッド・ギルモア
第四期1980~1985 『ファイナル・カット』
- ロジャー・ウォーターズ
- ニック・メイスン
- デヴィッド・ギルモア
- ※リチャード・ライトはサポート・メンバーとして「ザ・ウォール・ツアー」に参加。
第五期1986~1987 『鬱』
- ニック・メイスン
- デヴィッド・ギルモア
- ※リチャード・ライトはゲスト・ミュージシャンとしてアルバム「鬱」に参加。
第六期1987~ 『光』~『PULSE』
- リチャード・ライト
- ニック・メイスン
- デヴィッド・ギルモア
第七期(=第三期)2005 LIVE 8
- ロジャー・ウォーターズ
- リチャード・ライト
- ニック・メイスン
- デヴィッド・ギルモア
[編集] ディスコグラフィー
[編集] アルバム
発売年 | タイトル(邦題) | タイトル(原題) | 全英順位 | 全米順位 | 全米売上 |
---|---|---|---|---|---|
1967年 | 夜明けの口笛吹き | The Piper At The Gates Of Dawn | 6 | 131 | - |
1968年 | 神秘 | A Saucerful Of Secrets | 9 | - | - |
1969年 | モア | More | 9 | 153 | - |
1969年 | ウマグマ | Ummagumma | 5 | 74 | 1,000,000 |
1970年 | 原子心母 | Atom Heart Mother | 1 | 55 | 500,000 |
1971年 | ピンク・フロイドの道 | Relics | 32 | 152 | - |
1971年 | おせっかい | Meddle | 3 | 70 | 2,000,000 |
1972年 | 雲の影 | Obscured By Clouds | 6 | 46 | 500,000 |
1973年 | 狂気 | The Dark Side Of The Moon | 2 | 1 | 15,000,000 |
1973年 | ナイス・ペア | A Nice Pair | 21 | 36 | 500,000 |
1975年 | 炎~あなたがここにいてほしい | Wish You Were Here | 1 | 1 | 6,000,000 |
1977年 | アニマルズ | Animals | 2 | 3 | 4,000,000 |
1979年 | ザ・ウォール | The Wall | 3 | 1 | 23,000,000 |
1981年 | 時空の舞踏 | A Collection Of Great Dance Songs | 37 | 31 | 2,000,000 |
1981年 | ワークス~ピンク・フロイドの遺産 | Works | - | 68 | - |
1983年 | ファイナル・カット | The Final Cut | 1 | 6 | 2,000,000 |
1987年 | 鬱 | A Momentary Lapse Of Reason | 3 | 3 | 4,000,000 |
1988年 | 光~PERFECT LIVE! | Delicate Sound Of Thunder | 11 | 11 | 3,000,000 |
1992年 | シャイン・オン | Shine On | - | - | 1,000,000 |
1994年 | 対 | The Division Bell | 1 | 1 | 3,000,000 |
1995年 | P.U.L.S.E | Pulse | 1 | 1 | 2,000,000 |
2000年 | ザ・ウォール・ライブ:アールズ・コート1980~1981 | Is There Anybode Out There? : The Wall Live 1980 - 1981 | 15 | 19 | 1,000,000 |
2001年 | エコーズ~啓示 | Echoes : The Best Of Pink Floyd | 2 | 2 | 3,000,000 |
全米通算売上枚数 7,350万枚
[編集] シングル
- 1967 アーノルド・レーン/キャンディー・アンド・ア・カレント・バン
- 1967 シー・エミリー・プレイ/黒と緑のかかし
- 1967 アップルズ・アンド・オレンジズ/絵の具箱
- 1968 イット・ウッド・ビー・ソー・ナイス/夢に消えるジュリア
- 1968 星空のファンタジア/ユージン、斧に気をつけろ
- 1979 アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール パート2/ワン・オブ・マイ・ターンズ
[編集] 映像作品
- 1983 ピンク・フロイド ザ・ウォール(映画) - Pink Floyd/The Wall
- 1989 光~PERFECT LIVE! - Pink Floyd in Concert Delicate Sound of Thunder
- 1992 ピンク・フロイド・ライヴ・アット・ポンペイ - Pink Floyd Live at Pompeii
- 1992 道:カレラ・パンアメリカーナ - La Carrera Panamericana
- 1995 P.U.L.S.E - P.U.L.S.E
- 1995 ロンドン 66-67 - London 66-67 Dedicated to Syd Barrett
- 2003 クラシック・アルバムズ:ピンク・フロイド/狂気 - Classic Albums:Pink Floyd/The Dark Side of the Moon
- 2006 驚異 - P.U.L.S.E(95年発表作品のDVD版)
[編集] 日本公演
- 8月6日,7日 箱根アフロディーテ、9日 大阪フェスティバルホール
- 3月6日,7日 東京都体育館、8日,9日 大阪フェスティバルホール、10日 京都府立体育館、13日 札幌中島スポーツセンター
- 3月2日,3日 日本武道館、4日,5日,6日 国立代々木競技場第一体育館、8日,9日 大阪城ホール、11日 名古屋レインボーホール
[編集] 外部リンク
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