リーゼル・フーバー
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リーゼル・フーバー |
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基本情報 |
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英語名 | Liezel Huber |
国籍 | 南アフリカ共和国 |
出身地 | 同・ダーバン |
生年月日 | 1976年8月21日 |
身長 | 180cm |
体重 | 72kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | 両手打ち |
ツアー経歴 |
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デビュー年 | 1993年 |
ツアー通算 | 19勝 |
シングルス | 0勝 |
ダブルス | 19勝 |
4大大会最高成績 |
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全豪 | シングルス出場なし |
全仏 | 2回戦(1998) |
全英 | シングルス出場なし |
全米 | 1回戦(1998) |
キャリア自己最高ランキング |
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シングルス | 131位 |
ダブルス | 4位 |
Template |
リーゼル・フーバー(Liezel Huber, 1976年8月21日 - )は、南アフリカ・ダーバン出身の女子プロテニス選手。ダブルスの得意な選手で、キャリアを通じて獲得したタイトルはすべてダブルスである(シングルスの優勝はない)。2004年のウィンブルドンで、日本の杉山愛とペアを組んで準優勝した選手として知られる。自己最高ランキングはシングルス131位、ダブルス4位。フォアハンド・ストロークを得意とするベースライン・プレーヤーである。既婚。
母親の勧めで5歳からテニスを始め、1993年4月にプロ転向。1998年に全仏オープンと全米オープンで2度シングルスの本戦に出場したが、彼女の4大大会シングルス出場はこの2度だけである。2000年2月19日、コーチのトニー・フーバー(Tony Huber)と結婚。彼女の旧姓は「リーゼル・ホーン」(Liezel Horn)といったが、結婚後は夫の姓だけを使用して「リーゼル・フーバー」と名乗っている。結婚した年は、シドニー五輪の女子ダブルスでアマンダ・クッツァーとペアを組んだ(1回戦で敗退)。
2001年9月23日、日本の東京・有明コロシアムで行われた「トヨタ・プリンセス・カップ」の女子ダブルスでツアー初優勝を達成する。パートナーはジンバブエのカーラ・ブラックと組み、第1シードの杉山愛&キム・クライシュテルス組を 6-1, 6-3 で破っての初優勝だった。この後日本の「ジャパン・オープン」にも出場し、オーストラリアのレイチェル・マッキランとのペアで優勝した。ここから、リーゼル・フーバーはダブルスのスペシャリストとしてのキャリアを開花させる。2002年は女子ダブルスで1勝、2003年は5勝を挙げた。2003年3月末の「マイアミ・マスターズ」と4月第1週のサラソタ大会で2週連続優勝を記録した時は、その2週連続で浅越しのぶと宮城ナナの日本ペアを決勝で破ったこともある。マイアミではマグダレナ・マレーバとペアを組み、サラソタでは2000年秋からダブルスに復帰したベテランのマルチナ・ナブラチロワと組んで優勝した。
リーゼル・フーバーの名前が日本で広く知られるようになったのは、2004年のウィンブルドン女子ダブルス準優勝がきっかけである。この時、フーバーはウィンブルドン女子ダブルスの2連覇を目指した杉山愛をうまくサポートできず、カーラ・ブラック(ジンバブエ)とレネ・スタブス(オーストラリア)の組に 3-6, 6-7 のストレートで敗れてしまった。杉山とフーバーの組は、この年の全豪オープンはベスト4、全仏オープンは1回戦敗退に終わっている。前年まで杉山はキム・クライシュテルスとペアを組み、2003年の全仏オープンとウィンブルドンで4大大会女子ダブルス2連勝を成し遂げたが、クライシュテルス側の事情でペアを解消した経緯がある。フーバーはクライシュテルスに比べると、杉山のダブルス・パートナーとしてはやや不向きな点があった。
2005年、リーゼル・フーバーとカーラ・ブラックのペアは全仏オープンとウィンブルドンの2大会連続で4大大会ダブルス決勝進出を果たす。全仏オープンの女子ダブルス決勝ではビルヒニア・ルアノパスカル(スペイン)&パオラ・スアレス(アルゼンチン)の強豪ペアに敗れたが、ウィンブルドンの女子ダブルス決勝でスベトラナ・クズネツォワ&アメリ・モレスモ組を 6-2, 6-1 のストレートで破り、前年に杉山とのペアで果たせなかったウィンブルドン・ダブルス優勝を飾った。この偉業により、フーバーは南アフリカの「最優秀女子スポーツ選手賞」を受賞した。
2007年の全豪オープン女子ダブルスで、フーバーとブラックは台湾ペアの詹詠然&荘佳容組を 6-4, 6-7, 6-1 で破り、4大大会女子ダブルス2勝目を挙げた。