ルートヴィヒ・エアハルト
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ルートヴィヒ・エアハルト(Ludwig Erhard, 1897年2月4日 - 1977年5月5日)は、ドイツの政治家。1963年から1966年まで、西ドイツ首相。長く経済相を務め、西ドイツの戦後の奇跡的な経済成長(エアハルトの奇跡)の立役者として名声を博した。
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[編集] 学生時代と職業
ルートヴィヒ・エアハルトは、1897年、裁縫用品商を営む父ヴィルヘルム・エアハルトとその妻アウグスタ(旧姓ハッソルド)の間にフュルトで生まれた。
1913年に中級終了資格(Mittlere Reife)を取得して卒業後、1916年までニュルンベルクで商業家になるための職業訓練を受ける。その後、第1次世界大戦に参戦し、1918年にベルギーのイプル(独Ypern、仏Ypres)で重傷を負う。1919年から1922年にかけて、ニュルンベルク商業大学で学び、経営学士号を取得。続けてフランクフルト・アム・マインのヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学で経営学・社会学を学ぶ。1925年にこの地で、フランツ・オッペンハイマーの指導の下、博士号を取得する。学問の師として、特にヴィルヘルム・リーガーとフランツ・オッペンハイマーには、生涯感謝の念を忘れることは無かった。
1925年に両親の経営する会社を引き継ぐが、1928年、世界恐慌のあおりから、他の多くの中小企業と同じように会社が破産してしまう。1928年から1942年にかけて、まずアシスタントとして、後期は所長代理としてニュルンベルクの「ドイツ完成品経済観測所」(Institut fuer Wirtschaftsbeobachtung der deutschen Fertigware)に勤務。1930年代前半に受けた大学教授資格試験は、ナチを支持する団体に加入するのを拒んだことから不合格であったとも言われる。
1942年から1945年の間、彼自身が設立し、今日のドイツ産業連盟(Bundesverband der Deutschen Industrie/BDI、当時:連邦産業グループ、Reichsgruppe Industrie)の資金で運営された「産業研究所」の所長を務める。1944年には、彼らの依頼によりドイツの敗戦を率直に受け止め、戦後の経済再建のためのプランをまとめた「戦費調達と債務の国債化」を執筆する。カール・フリードリヒ・ゲルドレールもこれに驚嘆し、さらにオットー・オーレンドルフが事務次官代理を務める帝国財務省も興味を示した。
1947年、ミュンヘン大学の名誉教授の職に就き、1950年にはボン大学に招聘される。
[編集] 家族
ルートヴィヒ・エアハルトは、1923年にルイーゼ・シュスターと結婚し、一女をもうける。一家はグムンド・アム・テーゲルンゼーに住んでいた。
[編集] 政党
エアハルトは1949年より以前、リベラルと看做されていたが、彼の政策のためにより幅広い支持を約束するドイツキリスト教民主同盟(CDU)に入党する。しかし、CDUに入党したのは正式には1963年(厳密な日時は不明。1966年3月23日に党総裁になったときである可能性もある。)である。1996年から67年にかけてCDU連邦総裁、67年以降は名誉総裁をつとめた。
[編集] 代議士
1949年から死去するまで、エアハルトはドイツ下院の議員であった。1949年から69年まではウルム選挙区から直接選出されており、1972年と76年にはバーデン・ヴュルテンベルク州の州リストを通して下院に選出された。1972年と76年には、最年長議員として下院開会を宣言している。
ヘルマン・ゲッツ、ゲルハルト・シュレーダー(両者CDU)、リヒャルト・イェーガー、フランツ=ヨーゼフ・シュトラウス、リヒャルト・シュテュックレン(両者CSU)、エーリッヒ・メンデ(FDP、後にCDU)、アーヴィン・ランゲ、R.マーティン・シュミット、ヘルベルト・ヴェーナー(前者SPD)と並んで、戦後1949年の選挙から25年間連続して議員であり続けた10人に属する。
[編集] 1945年以降の政治的活躍
1945年から45年にかけ、エアハルトはヴィルヘルム・ヘグナーの率いるバイエルン州政府の通商・産業大臣を務めた。1947年、米英2カ国の占領する地域の財政管理部門で通貨・融資特別局という専門家を集めた委員会の長を務め、通貨改革の準備を任される。
1948年の3月2日、エアハルトはFDPの推薦を受けて、連合経済地域の経済管理局長に任命されることで、西側連合国に占領された地域の経済政策の責任者となる。計画された通貨改革の時期について、エアハルトが連合国側から知らされたのは、予定された日時の僅か5日前、1948年6月20日のことであった。改革の前日、ラジオで強制生産管理の終了、価格の自由化を報じさせたことで、翌日アメリカ軍政務官であったルシアス・D・クレイに呼び出され、勝手な判断により連合占領法を改変したと非難を受ける。彼はそれに、「改変したのではなく、廃止したのだ!」と応じたという。彼による占領法の廃止は、連合軍の役所が閉まっているという理由から、あえて1948年のある日曜日に決行されたのだった。基本方針法として実現した彼の一存による決定は、今日ではその後の「経済の奇跡」の重要な前提であったとされている。
1.経済相時代 1949年の下院選挙後、1949年9月20日にエアハルトはアデナウアー首相の率いる連邦政府の経済大臣に任命される。1957年の下院選の後には、経済相の任に加えて連邦首相代理にも任命された。
エアハルトは社会主義的市場経済のコンセプトを共同で開発したメンバーの一人であり、特にヴァルター・オイケンが彼の著作「国民経済の基礎」(1938年)の中で提唱したオルドリベラリズムの支持者であるとされている。オルドリベラリズムの核となる主張は、自由主義的法治国家を築くことにより、すべての経済主体の自由が(相互においても)保護されるような経済の枠組みを用意しようというものである。この学派は、特にヴィルヘルム・レプケや、連邦経済省事務次官に任命されたアルフレッド・ミュラー=アルマックが、戦後の数十年にわたって経済政策に直接の影響を与え、エアハルトは50年代、最も任期のある政治家であった。彼はドイツの経済の奇跡の立役者であるとされ、いつも葉巻を手にした姿はトレードマークとなった。
CDUが1953年と57年におさめた下院選挙での勝利は、大部分は彼の功績である。しかし彼自身は、「奇跡など存在しない」という理由で「経済の奇跡」という言い方を退け、ドイツの高度経済成長は、市場経済主義的政策の成功の結果であるという立場を取った。
市場経済の守護者として、社会派政治家であったアデナウアーとは激しい議論を戦わせ、その激しさは1957年の年金制度改革の際にピークに達する(改革はアデナウアーの案に沿って実行に移された)。以来現在まで続いている賦課方式に対し、エアハルトやFDPは、将来長く持続可能なシステムでは無いという理由で反対した。ベビーブームの後、人口が減少をたどる今、エアハルトの賦課方式に対する疑念は正しかったことは、今日多くの政治家が認めている。
経済相の任について以来、エアハルトは首相の厳しい批判に晒されることになった。アデナウアーの批判は主に、エアハルトの度々の不在、経済省に対するコントロールの不十分さ、熟慮にかけた物言いに向けられていた。エアハルトの支持者は、1920年海軍師団のカップ反乱をもじって「エアハルト部隊」と呼ばれもした。しかし、彼らが特にグループを形成していたということはなく、中にはまずアデナウアーを首相の座から降ろし、エアハルトの次に首相になることを目論んでエアハルトを支持する者もいた。
2.首相時代 アデナウアーが1963年10月15日に辞任した後の10月16日、エアハルトは首相に選出される。彼は1957年以降副首相を務めており、さらに選挙時における強さから、党に所属してはいなかったものの、CDUの人気議員であった。しかしアデナウアーを始めとする多くは、エアハルトの首相としての資質を疑っており、したがって彼の首相就任は、1965年の下院選挙を勝つための暫定的解決策として多数派の支持を得たのだった。
エアハルトの任期期間は運に恵まれていなかったといえる。ゲルハルト・シュレーダー(CDU)とともに、アトランティック派としてフランスよりもアメリカとの関係を重視したエアハルトに対し、CDUは独仏関係の冷却化の責任は彼にあるとした。アデナウアーは、エアハルトが首相にふさわしくないとして、後継者決定の際にすでに彼を落とそうと試みていた。1965年、エアハルトはCDUの選挙戦史上2番目の大勝利を収めるが、組閣においてCDU/CSU内で彼の意志が通らず、その後の数ヶ月、彼の指導力は目に見えて低下していった。挽回を喫し、ライバルであるバーツェルを阻止するために、エアハルトは自身をCDUの連邦総裁に選出させる。しかし財政危機・FDP所属の大臣の辞職や、自分の所属政党からの支持の不足により、1966年、彼は首相を辞任する。
ルートヴィヒ・エアハルトの所属した内閣は以下の通りである。
- アデナウアー第一・第二・第三・第四・第五内閣
- エアハルト第一・第二内閣
死後、グムンド・アム・テーゲルンゼーの山手墓地に葬られた。
[編集] 表彰
1977年5月11日、彼の死去に伴い、ドイツ下院のプレナーの間で、彼の功績を称える国儀が執り行われた。
[編集] 著作
- 価値単位の在り方と内容 Wesen und Inhalt der Werteinheit(博士論文)、1925年
- 戦費調達と債務の国債化 Kriegsfinanzierung und Schuldenkonsolidierung(公的機関宛ての書簡)、1944年
- これは1977年にPropylaeen社より再版されている。ISBN 3-550-07356-9
- ドイツの世界市場への復帰 Deutschlands Rueckkehr zum Weltmarkt、1953年
- すべての者のためのライフ・スタンダード Wohlstand fuer Alle、1957年
- ドイツの経済政策 Deutsche Wirtschaftspolitik、1962年
- 民主主義の限界とは Grenzen der Demokratie?、1973年
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