ドイツの首相
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ドイツの首相 (− しゅしょう) は、ドイツにおける行政府の長である。
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[編集] 概要
本項では1871年のドイツ統一から現在に至るまでのドイツの首相について解説する。この間にドイツがたどった国家形態の名称と首相の呼称は以下の通り。ドイツ語の公式名称とその邦訳を先に示し、日本における一般的な通称を ( ) 内に添えた。
- 帝政ドイツ 1871−1918
- Deutsches Reich、ドイツ帝国 (ドイツ帝国)
- Reichskanzler、帝国宰相 (宰相、首相)
- ヴァイマル共和政 1918−1934[1]
- Deutsches Reich、ドイツ国 (ドイツ、ヴァイマル共和国)
- Reichskanzler、国家宰相 (首相)
- ナチスドイツ 1934−1945
- Deutsches Reich、ドイツ国 (ナチスドイツ、第三帝国)
- Führer und Reichskanzler、指導者兼国家宰相 (総統)
- 東ドイツ 1949−1990
- Deutsche Demokratische Republik、ドイツ民主共和国 (東ドイツ、東独)
- Vorsitzender des Ministerrates、閣僚評議会議長 (首相)
- 西ドイツ 1949年 − 1990年
- Bundesrepublik Deutschland、ドイツ連邦共和国 (西ドイツ、西独)
- Bundeskanzler、連邦首相 (首相)
- 再統一後 1990年 −
- Bundesrepublik Deutschland、ドイツ連邦共和国 (ドイツ)
- Bundeskanzler、連邦首相 (首相)
[編集] 呼称と歴史
[編集] 語源と由来
ドイツの首相の呼称にはどれにも -kanzler という語が含まれている。この Kanzler (英: chancellor) というのは古フランス語の chancelier が語源で、本来は「宮廷や法廷の門衛、案内役、事務員、秘書官」などをさす語だった。神聖ローマ帝国初期のドイツでは、宮廷の礼拝を司る司教が宮廷文書の管理なども行ったことから、これが「法官 (Kanzler)」と呼ばれていた。
中世になると、マインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教の三司教は選帝侯を兼ねて世俗諸侯と肩を並べるほど強力になった。のちにこれが帝国の最高官職である帝国尚書局長官に任じられるようになると、この三司教はそれぞれ「ドイツ大法官 (Erzkanzler durch Germanien)」、「イタリア大法官 (Erzkanzler durch Italien)、「ガリア=ブルグント大法官 (Erzkanzler durch Gallien und Burgund)」と称すようになった。
こうした大法官の中には事実上の宰相として皇帝の政務を補佐したり、事実上の摂政として幼少の皇帝にかわって国政を担当した者もいたが、1356年の金印勅書でマインツ大司教が皇帝選挙の主催者とされ、選帝侯の筆頭に位置づけられると、これ以後「Erzkanzler durch Germanien」は「ドイツ (神聖ローマ帝国) の宰相」を意味する語としてドイツ語圏に定着した。
[編集] 宰相から首相へ
近世になると、帝国内のプロイセン王国領やオーストリア大公領の宰相にも Staatskanzler (領国宰相) という呼称が用いられるようになった。
1867年にプロイセン主導で北ドイツ連邦が成立すると、ビスマルクは自らその首相に就いて 「Bundeskanzler (連邦宰相)」と称した。1871年にドイツ帝国が成立すると、こんどは「Reichskanzler (帝国宰相) として以後19年間政界に君臨し、ドイツを列強の一つに押し上げた。
1918年、第一次世界大戦の敗北からドイツ帝国が崩壊すると、ドイツは共和政となった。しかし新国家の国号に提案された「Deutsches Republik (ドイツ共和国)」には各方面からの拒否反応が強く、結局 Reich という語には「帝国」という意味の他に「領土」という意味もあるので差し支えないだろうということになり、国号には引き続き「Deutsches Reich (ドイツ帝国)」が用いられた。このため「Reichskanzler (帝国宰相)」の呼称もそのまま共和国に引き継がれた。
ただし日本では1918年から1933年までの共和政ドイツのことを「ドイツ国」、その宰相を「首相」と呼んで帝政時のものと区別している。またこれ以降、-kanzler の定訳は今日まで一貫して「首相」である。
[編集] 総統
1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領が在任のまま死去すると、ヒトラー首相は国民投票をおこなって自らが後任の大統領としての承認を受けた。ただし「故大統領に敬意を表して」自分のことは「Führer (指導者)」と呼ぶよう国民に求める。8月19日、ヒトラーはあらためて「指導者兼国家宰相 (Führer und Reichskanzler)」に就任した。これを邦訳したのが「総統」である。
[編集] 東西分裂と再統一
第二次世界大戦後、ドイツは米・英・仏・ソの四ヵ国による占領下におかれたが、冷戦の対立構造が固定化されていく中で共同占領は困難となり、1949年秋に米英仏占領区にドイツ連邦共和国 (西ドイツ) が、ソ連占領区にドイツ民主共和国 (東ドイツ) が建国された。
東ドイツはソ連型一党独裁型の政治体制をとっており、国家元首にあたる国家評議会議長や首相にあたる閣僚評議会議長などがおかれたが、国政の実権は支配政党であるドイツ社会主義統一党の書記長が握っていた。
一方、西ドイツでは国号に「連邦」の一語が追加されたのにともない、首相の呼称も北ドイツ連邦時代の「連邦宰相」Bundeskanzler に戻された。1990年10月3日、東ドイツを吸収合併して再統一を達成した後もこの呼称は変わっていない。ただし日本では「宰相」という時代がかった表現はもうほとんど使われなくなってきており、Bundeskanzler の公式訳も「連邦首相」とするものがほとんどとなっている。
[編集] 外国の首相の呼称
日本語では、外国の首相を一律に「首相」と呼ぶことになっている。したがって現在のドイツ連邦共和国の Bundeskanzlerin も、過去のドイツ帝国の Reichskanzler も、すべて「首相」と言ってしてしまって差し支えはない[2]。
英語では、自国外国を問わず、首相は一律に「Prime Minister」と呼ぶことになっている。ただしドイツの首相だけは伝統的な例外で、ドイツ語を直訳した「Federal Chancellor」、 または単に「Chancellor」と呼んでいる。
ドイツ語では、同じドイツ語圏のオーストリアの首相のことを Bundeskanzler (連邦首相) と呼んでいる。そのほかの外国の首相は、各国の政治機構や原語での表現をもとに、「Ministerpräsident」または「Premierminister」と呼んでいる(意味は双方とも「首相」)。
[編集] 歴代ドイツ首相
[編集] 帝政ドイツ「帝国宰相」
在 任 | 首 相 |
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1871年3月21日 − 1890年3月20日 | オットー・フォン・ビスマルク |
1890年3月20日 − 1894年10月26日 | レオ・フォン・カプリヴィ |
1894年10月29日 − 1900年10月17日 | ホーエンローエ・シリングスフュルスト |
1900年10月17日 − 1909年7月14日 | ベルンハルト・フォン・ビューロー |
1909年7月14日 − 1917年7月13日 | テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク |
1917年7月14日 − 1917年10月24日 | ゲオルク・ミヒャエリス |
1917年10月25日 − 1918年10月3日 | ゲオルク・フォン・ヘルトリング |
1918年10月3日 − 1918年11月9日 | バーデン公マキシミリアン |
1918年11月9日 − 1919年2月13日 | フリードリヒ・エーベルト [3] (社会民主党) |
[編集] ヴァイマル共和政「国家宰相」
在 任 | 首 相 |
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1919年2月13日 − 1919年6月20日 | フィリップ・シャイデマン (社会民主党) |
1919年6月21日 − 1920年3月26日 | グスタフ・バウアー (社会民主党) |
1920年3月27日 − 1920年6月8日 | ヘルマン・ミュラー (社会民主党) |
1920年6月25日 − 1921年5月4日 | コンスタンチン・フェーレンバッハ (カトリック中央党) |
1921年5月10日 − 1922年11月14日 | ヨーゼフ・ヴィルト (カトリック中央党) |
1922年11月22日 − 1923年8月12日 | ヴィルヘルム・クノー [4] |
1923年8月13日 − 1923年11月23日 | グスタフ・シュトレーゼマン (ドイツ人民党) |
1923年11月30日 − 1924年12月15日 | ヴィルヘルム・マルクス [4] (カトリック中央党) |
1925年1月15日 − 1926年5月12日 | ハンス・ルター |
1926年5月16日 − 1928年6月12日 | ヴィルヘルム・マルクス (カトリック中央党) |
1928年6月28日 − 1930年3月27日 | ヘルマン・ミュラー |
1930年3月30日 − 1932年5月30日 | ハインリヒ・ブリューニング [4] (カトリック中央党) |
1932年6月1日 − 1932年11月17日 | フランツ・フォン・パーペン [4] (カトリック中央党) |
1932年12月3日 − 1933年1月28日 | クルト・フォン・シュライヒャー [4] |
1933年1月30日 − 1934年8月19日[1] | アドルフ・ヒトラー (ナチ党) |
[編集] ナチスドイツ「指導者兼国家宰相 (総統)」
在 任 | 首 相 |
---|---|
1934年8月19日 − 1945年4月30日 | アドルフ・ヒトラー (ナチ党) |
1945年4月30日 − 1945年5月1日 | ヨーゼフ・ゲッベルス (ナチ党) |
1945年5月1日 − 1945年5月23日 | シュヴェリン・フォン・クロージク [5] |
[編集] 東ドイツ「閣僚評議会議長」
在 任 | 首 相 |
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1949年月日 − 1964年月日 | オットー・グローテヴォール (社会主義統一党) |
1964年月日 − 1973年月日 | ヴィリー・シュトフ (社会主義統一党) |
1973年月日 − 1976年月日 | ホルスト・ジンダーマン (社会主義統一党) |
1976年月日 − 1989年月日 | ヴィリー・シュトフ (社会主義統一党) |
1989年月日 − 1990年月日 | ハンス・モドロウ (社会主義統一党) |
1990年4月12日 - 1990年10月2日 | ロタール・デメジエール (キリスト教民主同盟) |
[編集] 西ドイツ「連邦首相」
在 任 | 首 相 |
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1949年9月15日 − 1963年10月16日 | コンラート・アデナウアー (キリスト教民主同盟) |
1963年10月16日 − 1966年12月1日 | ルートヴィヒ・エアハルト (キリスト教民主同盟) |
1966年12月1日 − 1969年10月21日 | クルト・ゲオルク・キージンガー (キリスト教民主同盟) |
1969年10月21日 − 1974年5月7日 | ヴィリー・ブラント (社会民主党) |
1974年5月7日 − 1974年5月16日 | ヴァルター・シェール [6] (自由民主党) |
1974年5月16日 − 1982年10月1日 | ヘルムート・シュミット (社会民主党) |
1982年10月1日 − (1990年10月3日) | ヘルムート・コール (キリスト教民主同盟) |
[編集] 再統一後「連邦首相」
在 任 | 首 相 |
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(1990年10月3日) − 1998年10月27日 | ヘルムート・コール (キリスト教民主同盟) |
1998年10月27日 − 2005年11月22日 | ゲアハルト・シュレーダー (社会民主党) |
2005年11月22日 − | アンゲラ・メルケル (キリスト教民主同盟) |
[編集] 注
- ^ a b 一般にはヒトラーが政権の座についた1933年1月30日以降を「ナチスドイツ」と呼ぶが、ここでは便宜上、ヒトラーの総統就任前まで期間をヴァイマル共和政に含めた。
- ^ なおドイツは州政府も議院内閣制で、州政府の長は Ministerpräsident と呼ばれるが、日本ではこれを「州首相」と呼んでいる。
- ^ 帝政崩壊による臨時政府人民代表委員と重複する。エーベルトは、軍事と内務を担当した。後にヴァイマル共和国初代大統領。
- ^ a b c d e 大統領非常大権により議会の指名なしで任命。
- ^ 臨時代行。
- ^ 副首相による臨時代行。
[編集] 関連項目