ロスコー・アーバックル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ロスコー・アーバックル(Roscoe Conkling (Fatty) Arbuckle, 1887年3月24日 - 1933年6月29日)はアメリカ合衆国カンザス州スミスセンター出身の喜劇俳優、映画監督、脚本家。サイレント映画の全盛期を支えた俳優の1人である。愛称は「太っちょ」という意味の「Fatty」。日本では「デブ君」などと呼ばれた。大柄な体格の割に、機敏な動きを得意にするなどして人気を博した。「Fatty Arbuckle(ファッティ・アーバックル)」と表記・呼称されることもある。身長178㎝。
目次 |
[編集] 略歴
1歳の時、家族でカリフォルニアに移った。若くして職に就いた経歴を持つ。この頃、舞台にも立っている。1909年に『Ben's Kid』で映画デビューした後、また舞台の世界に戻ると、海外巡業に出てハワイ、中国、日本などを訪れた。日本では東京や横浜に足を運んだ。
1913年からスラップスティック・コメディの創始者マック・セネットからスカウトされたことがきっかけでキーストン社に在籍。1巻ものの短編映画にキーストン・コップス(大勢の警官がドタバタ喜劇を繰り広げる)の一員として出演した。当時新人だったチャーリー・チャップリンとの共演作品も存在している。その後、自らのプロダクションを設立。メーベル・ノーマンドなどの人気俳優とも共演を繰り返した(『ファッティとメーベル』シリーズが有名)。そして一躍、喜劇を代表する大スターになった。また、評価が急上昇したチャップリンと人気を二分した時代でもある。
相手にパイを投げつける行為、いわゆる「パイ投げ」をハリウッドで最も早い時期に試みた人物がアーバックルとされる。その映画は1913年の『A Noise from the Deep』で、メーベル・ノーマンドとの共演作品。多くのアーバックル作品で「パイ投げ」の芸達者ぶりを観ることができる(しかしながら、現存する作品自体あまり多くない)
1917年にはバスター・キートンに映画入りを勧め、『デブの肉屋(ファッティーとキートンのおかしな肉屋)』 (The Butcher Boy) では初共演を果たしている。以後、キートンはアーバックルを師事するようになる。
パラマウント社(当時はフェイマス・プレイヤーズ=ラスキー社)に移籍した1921年、女優ヴァージニア・ラッペへの強姦殺人(故殺)容疑で起訴される。これはパーティ会場に居合わせたアーバックルが、駆け出しの女優だったラッペに対して犯行に及んだと報道された事件で、当時のハリウッド、また全米を震撼させた出来事の1つである。パーティの後、3日後にラッペは膀胱破裂に起因する腹膜炎で死亡。これにより様々な情報、憶測が新聞を通じて大々的に報じられた。当初からアーバックルは「そのような事実は無かった」と訴え、結局、証拠不十分により無罪を評決されている。しかしながら現在に至っても真相は解明されていない。この事件により世間のハリウッドに対する風当たりは厳しくなり、アーバックル作品が各都市で上映禁止になるなどした。
上記の事件により、アーバックルは半ば映画界から追放された形になり収入が途絶えた。一端映画界から離れ、ヴォードヴィルへの出演を経験した後、1924年にバスター・キートンに声を掛けられて『キートンの探偵学入門(キートンの忍術入門)』 (Sherlock,Jr.) の監督に挑戦した。現場の関係者とは息が合わなかったが、他の作品への監督を紹介されるなど、かつての仲間に助けられる形になり、本格的に監督の仕事をこなすようになった。尚、この頃から名前を「ウィル・グッドリッチ」 (William Goodrich) に改めて活動した。これは「Will be good=きっと良くなる」をもじったもので、バスター・キートンが考案した。
1933年6月29日、心臓麻痺によりニューヨークのマンハッタンで死亡。享年46。ワーナー・ブラザーズ社で短編映画の製作に取り組んでいる最中だった。遺体は火葬された後、太平洋に散骨された。
[編集] 結婚
3度の結婚を経験している。
- ミンタ・ダーフィー (女優) 1918年結婚。1925年離婚。長らく別居生活が続いた。
- ドリス・ディーン (女優) 1925年結婚。1928年離婚。
- アディー・マクファイル (女優) 1932年結婚。
[編集] 備考
- 日本ではチャーリー・チャップリン作品やバスター・キートン作品で、本数は少ないながらもアーバックルの姿を見ることが可能である。またアメリカではアーバックルのDVDなどが発売されている。
- チャップリン、キートンにハロルド・ロイドを加えた3人で「世界の三大喜劇王」と称されることが一般的だが、更にアーバックルを加えた4人で「世界の四大喜劇王」と稀ながら称される。4人目として、アーバックルの他にもハリー・ラングドンの名前が挙がることもある。
- 1921年の醜聞によって多くの主演作品のプリントが消失した(故意に棄てられた)。その為、全盛期の主演作品のプリントのほとんどが現存しないとされる。
- 同時代に活動し、数々の作品で共演した喜劇俳優のアル・セント・ジョンは従兄弟にあたる。
[編集] 主な作品
- もつれタンゴ Tango Tangles (1914)
- 彼の得意の芸当(彼がお好みの娯楽) His Favorite Pastime (1914)
- ノックアウト(デブの選手) The Knockout (1914)
- 男か女か(男?女?) The Masquerader (1914)
- チャップリンの独身(チャップリンの独立) His New Profession (1914)
- 両夫婦(二組の夫婦) The Rounders (1914)
- 映画狂(活動狂) A Film Johnnie (1914)
- デブ嬢の海辺の恋人たち Miss Fatty's Seaside Lovers (1915)
- デブと海嘯(デブ君の漂流) Fatty and Mabel Adrift (1916)
- デブ君の焼餅 He Did and He Didn't (1916)
- デブの料理番 The Waiter's Ball (1916)
- デブの肉屋(ファッティーとキートンのおかしな肉屋) The Butcher Boy (1917)
- デブ君化けの皮 A Reckless Romeo (1917)
- デブ君の入婿 The Rough House (1917)
- デブ君の結婚 His Wedding Night (1917)
- デブ君の医者 Oh Doctor (1917)
- ファッティとキートンのコニー・アイランド(デブ君の浜遊び) Coney Island (1917)
- デブ君の勇士 A Country Hero (1917) ※現存しない
- キートンとファッティーのアウト・ウェスト Out West (1918)
- デブ君の給仕 The Bell Boy (1918)
- デブ君の巌窟王 Moonshine (1918)
- キートンとファッティーのグッドナイト・ナース(デブ君の入院) Good Night, Nurse! (1918)
- デブのコック The Cook (1918)
- デブの舞台裏(キートンとファッティーの初舞台) Back Stage (1919)
- 石油成金 Gasoline Gus (1921)
- キートンの探偵学入門(キートンの忍術入門) Sherlock,Jr. (1924) ※監督、脚本のみ
- 鉄のラバ The Iron Mule (1924) ※脚本のみ
- 間抜けだが勇敢 Stupid but Brave (1924) ※脚本のみ
- デブの妄想狂(デブ君の大騒動) Buzzin' Around (1933)
[編集] 外部リンク
カテゴリ: アメリカ合衆国の俳優 | アメリカ合衆国の脚本家 | アメリカ合衆国の映画監督 | カンザス州の人物 | サイレント映画の俳優 | コメディアン | 1887年生 | 1933年没