三遊亭圓左
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三遊亭 圓左(さんゆうてい えんさ)は落語の名跡。過去4代目まで存在しているが、現在は空位。
- 初代三遊亭圓左 - 本項にて記述。
- 2代目三遊亭圓左 - (1880年10月4日 - 1928年4月5日)初代の実子。橘家志ん喬、三遊亭小圓左、柳亭たぬき、再び小圓左で1911年4月に2代目襲名、後に再びたぬき、圓左。本名:小泉巳之助。
- 3代目三遊亭圓左 - 後の5代目三遊亭圓窓。
- 4代目三遊亭圓左 - (1943年 - 1989年2月13日)4代目三遊亭圓馬の弟子。本名:山下守。
初代三遊亭 圓左(1848年(嘉永6年) - 1909年(明治42年))は明治期の落語家。本名:小泉熊山
[編集] 来歴
江戸京橋生まれ、はじめ鍼医を志していたが、落語が好きで1867年(明治元年)ころ三遊亭圓朝門人となる。 三遊亭理(鯉とも)朝、三遊亭米朝、を経て、一時旅回りの役者の一座に加わることもあったが、復帰して三遊亭飩朝、1885年(明治18)頃に三遊亭圓左を名乗る。
翌年、真打となり、師のすすめで道具入りの百物語を演じた。一時兄弟子の4代目三遊亭圓生の引き立てで三遊亭龍蝶と名乗った時期もあったが、ふたたび旧名の圓左に戻る。
晩年の1905年(明治38)には第一次落語研究会の発起人の一人となる。地味な芸風で客の評判はよくなかったが、噺は巧く、楽屋内では高く評価されていた。「柳の馬場」「富久」「天災」「やかん」などを得意とし、とくに按摩の登場する噺は絶品であった。後輩の指導にも力を入れ、3代目三遊亭圓馬は大きな薫陶を受けた一人である。
芸熱心で「毎日、方々歩いて、二軒三軒と人の家を訪問して、行った先で必ず噺をする。・・・一席やっちゃうと、『エエ、こういう噺も・・・』って、また一席演る。・・・そしてどうだこうだと言ってもらって、そこで自分でまた練りなおすんです。」
あるいは「ある日向島の料理屋からお座敷がかかった。行っておじぎをして、頭を上げたら、自分の倅が脇息にもたれて、芸者を二人ばかりわきへ置いてる。『馬鹿野郎オッ』ってどなった。『どこの国におやじを余興に呼ぶやつがある。その銭ア誰が出すんだ。みんなおれが払うんだ。』っておこってから『せっかくきたんだから一席聞かせてやる』ってそこで噺をしたんですから・・・いかに噺が好きだったか・・・・そのくらいですからうまいのも当り前なんですよ。」という証言がある。(2つとも、6代目三遊亭圓生著 『寄席育ち』)