三遊亭圓馬
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三遊亭 圓馬(さんゆうてい えんば)は落語家の名跡。当代は5代目。
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[編集] 初代
初代三遊亭圓馬(1827年 - 1880年)は江戸噺家。本名 野末亀吉。
三遊亭圓朝の一番弟子。圓朝四天王の一人とされる。通称、駒止めの圓馬。
[編集] 2代目
初代と同じく、圓朝の門下。圓弥から2代目圓雀を名乗り、2代目圓馬に。1891年大阪に移り、以降は大阪を本拠として活躍。桂派に属し、居住地から「空堀(の師匠)」と呼ばれた。なお、大阪でも東京落語を演じ続けた。橘ノ圓と親交があり旅回り専門の諸派の圓頂派が東京に出向いた際に高座にあがった。1918年三代目圓馬に名跡を譲り、圓翁と改名するが、同年12月逝去。享年64。
門下に三遊亭小圓馬、三遊亭市馬(代数不明)、5代目橘家圓太郎(後に4代目三遊亭圓生門下か?)など
初代と同じく、圓朝の門下。初代金馬から2代目小圓朝を名乗り、2代目圓馬となる。
圓馬は一時期東京と大阪に二人存在したが、今日の圓馬につながるのは大阪の方である。
[編集] 3代目
3代目3代目三遊亭圓馬(1882年11月3日 - 1945年1月13日)は、落語家。本名 橋本卯三郎。大阪市出身。
月亭文都門下の上方落語家・月亭都勇を父に持ち、7歳の時、月亭小勇の名で高座に上がる。その後、2代目笑福亭木鶴の門下に転じ、都木松を名乗るが、さらに東京の立花家橘之助(女流浮世節師)の門に転じ、上京。立花家左近に改名。1909年、真打に昇進し、7代目朝寝坊むらくを襲名。1913年、後見役であった4代目橘家圓蔵を殴打する一件で東京を離れ、1916年、大阪に復帰。浪速三友派に所属し、橋本川柳を名乗る。1923年、2代目圓馬より名跡を譲り受け、3代目を襲名。
生粋の上方噺家でありながら、一流の江戸噺家でもあった希有の人。大阪弁と江戸弁を巧みに使い分ける事ができる、唯一と言って良い落語家であった。また、上方落語の多くを東京落語に移植した功績を持つ。
立花家左近時代には、とある前座を預かって猛特訓の上、鍛え上げた。この前座が後年の八代目桂文楽である。文楽は完全に圓馬に傾倒し、「舐めろと言われれば、師匠のゲロでも舐めましょう」とまで言い切っている。また、文楽が大阪で仕事があった際には必ず天下茶屋に在った圓馬宅に立ち寄り、差し向かいで稽古を付けて貰っていたという。
得意ネタは「鹿政談」など。晩年は吉本興業に所属し、看板落語家として活躍。演目は東京落語が多かったとされる。1945年没。享年65。
門下には、4代目三遊亭圓馬、5代目立川ぜん馬(立川善馬)、立川三馬、9代目朝寝坊むらく(後の5代目柳亭左楽門下にで9代目柳亭芝楽)、立川志らく(代数不明)、正岡容など。
[編集] 4代目
4代目4代目三遊亭圓馬(1899年-1984年)は、落語芸術協会に所属した落語家。本名 森田彦太郎。東京都文京区小石川出身。
落語家・三遊亭左円太を父に持ち、幼少時父と共に大阪に移り住む。1907年大阪の2代目圓馬に入門。円童を名乗る。その後とん馬と改名。1923年2代目圓馬が名跡を3代目に譲った際、3代目の預かりとなる形で移籍。1923年真打に昇進し、3代目小圓馬を襲名。以降、吉本興業の若手落語家として売り出すが、大阪に在っても師匠同様東京落語を演じた。1943年吉本を辞めて東京へ移籍。1947年4代目圓馬を襲名。以降、芸術協会の重鎮として活躍。父親同様に踊りも得意であった。1984年没。享年85。
門下に4代目三遊亭小圓馬、3代目三遊亭遊三、3代目橘ノ圓、6代目三遊亭圓太、6代目三遊亭圓輔、三遊亭若馬、5代目三遊亭圓雀、4代目三遊亭圓左、三遊亭左圓馬、三遊亭扇馬など。三遊亭小遊三や5代目圓馬は孫弟子に当たる。
[編集] 5代目
5代目5代目三遊亭圓馬(1961年11月25日 - )は落語芸術協会に所属する落語家。本名 中山聡。東京都港区西麻布出身。 1988年「3代目橘ノ圓に入門。壱圓を名乗る。1993年二つ目に昇進し、好圓に改名。2002年真打に昇進。5代目三遊亭圓馬を襲名。