三遊亭圓朝
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三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう)は、落語の大名跡。三遊派の総帥、宗家
- 初代三遊亭 圓朝は、落語中興の祖として有名。本項目で詳述。
- 2代目三遊亭 圓朝の前名は、初代三遊亭圓右。「名人圓右」の呼び声も高く、明治期から大正期に活躍した。晩年、病床についてから2代目圓朝を襲名したため、「幻の2代目」とも称される。→三遊亭圓右の項目を参照のこと。
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[編集] 宗家
この名跡は1924年(※ 実際には1900年)以降、藤浦家が預かる名跡となっている。宗家当主は、映画監督・藤浦敦。著書『三遊亭円朝の遺言』(ISBN 978-4404023964)がある。初代圓右が2代目圓朝を襲名する直前に死去して以降、宗家を名乗るに相応しい三遊派の落語家が現われないため、代々の藤浦宗家はこの名をどの落語家にも名乗らせていない。将来、藤浦敦が認めるような落語家が現れれば、その者が2代目三遊亭圓朝となる。
[編集] 初代
初代三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう、(天保10年4月1日(1839年5月13日) - 1900年(明治33年)8月11日)は、幕末から明治期に活躍した落語家。本名は出淵次郎吉。
[編集] 概要
落語家と称しても、「お笑い」の分野より、自ら創作した噺、講談に近い分野で独自の世界を築く。当時日本に導入された速記法により記録された文章は新聞で連載され人気を博した。これが作家二葉亭四迷(1864-1909)に影響を与え、1887年(明治20年)「浮雲」を口語体(言文一致体)で書いて文壇に衝撃を与えた。また海外文学作品の翻案にも取り組んだ。
1892年(明治25年 53歳)、病の為に廃業し、「無舌」と号した。
初代談洲楼燕枝とは年齢が一つ下でライバルであった。
[編集] 来歴
初代圓太郎(初代圓橘)の弟子で後に二代目圓生の弟子に。時の有力者で元勲・井上馨(1835-1915)の知遇を得て、身延山参詣(1886年明治19年1月8日)、北海道視察(明治19年8月4日より9月17日)に同行した。1887年明治20年4月26日井上馨邸(八窓庵茶室開き)での歌舞伎天覧時に招かれ、また井上馨の興津の別荘にも益田孝(1848-1938)らと共に招かれている。
多数の自作演目を創作し、「牡丹燈籠」「四谷怪談」「真景累ケ淵」など怪談ものが多い。
掲載写真は1896年(明治29年)に井上馨が山口での在郷縁者を招いての1年遅れの還暦祝いに招かれた時のものである。その折、圓朝は井上の要請により山口高等学校の生徒に自作の「鹽原多助一代記」の講談を演じた。それから4年後に没した。
墓:東京谷中さんさき坂・臨済宗国泰寺派全生庵、台東区谷中五丁目4番7号(東京都指定旧跡)
[編集] 弟子
- 四天王
- 初代橘家圓之助(圓朝の最古参の弟子)
- 3代目橘家圓太郎(2代目桂文楽の門より移籍)
- 4代目橘家圓太郎(「ラッパの圓太郎」)
- 初代三遊亭圓遊(「ステテコの圓遊」2代目五明楼玉輔の門より移籍)
- 初代三遊亭金朝
- 2代目三遊亭金朝
- 初代三遊亭萬橘(「ヘラヘラ節の」最初は圓朝の門、その後2代目三遊亭圓橘の門に移籍)
- 三遊一朝
- 5代目司馬龍生
- 6代目司馬龍生(5代目桂文治の門から2代目三升家小勝を経て移籍、最後は5代目司馬龍生の門)
- 初代三遊亭圓左
- 4代目圓喬
- 5代目朝寝坊むらく(司馬才次郎の門から2代目三遊亭圓生を経て移籍)
- 2代目三遊亭小圓朝
- 初代三遊亭圓三郎(3代目朝寝坊むらくの門より移籍)
- 2代目三遊亭圓馬(竹沢釜太郎、初代柳亭左龍の門より移籍)
- 初代橘ノ圓
- 2代目三遊亭新朝
- 4代目三遊亭新朝(圓朝の門、その後2代目三遊亭圓生の門へ、再び圓朝の門に復帰)
- 三遊亭圓丸
- 初代三遊亭ぽん太
- 三遊亭圓鶴
- 2代目三遊亭圓寿
- 3代目三遊亭圓寿
- 2代目三遊亭圓理(初代圓馬の門の市馬という自分の門から移籍)
- 三遊亭圓徳
- 3代目春風亭柳朝(初代談洲楼燕枝の門、3代目春風亭柳枝の門を経て移籍)
- 初代三遊亭亀朝
- 2代目三遊亭亀朝(圓朝の従兄弟)
- 三遊亭圓条(圓朝の門、後に初代三遊亭圓右)
- 初代圓次郎(亭号不明、橘家と推測される)
他
[編集] 谷中圓朝まつり
谷中圓朝まつりは、初代の命日8月11日を中心として、毎年8月の1ヶ月間、全生庵において開かれる。怪談噺創作の元になった幽霊画を一般に公開する(有料)。また、落語を奉納する(円朝寄席)。その中には珍しい演目も含まれる。2001年以降は、下谷観光連盟と圓朝まつり実行委員会(落語協会)の共催となっている。
2001年までは、円朝忌という名前で、命日当日に法要などの行事を行った。落語の奉納も命日に行われた。このころは大規模なイベントはなかった。円朝忌と前述の幽霊画公開は、2000年までは、落語協会だけでなく落語芸術協会と隔年交替で主催していた。落語芸術協会の財政事情の逼迫により、落語芸術協会は撤退した。
また2002年から2006年まで、下谷観光連盟と落語協会は、命日8月11日を中心とする特定の日曜日一日をイベント化し、(日本俳優協会の俳優祭のような)落語協会の楽しいファン感謝イベントを行った。一般に「円朝まつり」とは、特にこの一日のみを指したものだ。俳優祭のように、落語協会所属落語家が屋台の模擬店を出す。そこで、スター落語家自身が客と直接接して、わたあめを作ったり、ビールを注いだり…。もちろんCD、本、手ぬぐいなどグッズも落語家自身が客に直接手売りした。2005年には約一万人が訪れる大イベントに成長した。開催日は日曜日で、毎年変わった。、2007年からは、「圓朝記念・落語協会感謝祭」という名となる。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 円朝全集の青空文庫化が可能か著作権を検討した経過。