三重鉄道シハ31形気動車
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シハ31形は、三重鉄道(現在の近鉄内部・八王子線の前身)が1928年3月に日本車輌製造(日車)本店でシハ31~34の4両を新造した、小型の30人乗りガソリン動車である。 ここでは近隣の四日市鉄道(現在の近鉄湯の山線の前身)が同年7月に同じく日車本店で新造し、四日市鉄道の三重鉄道への合併後追番でシハ35・36となった、同系車のジ41・42を合わせて取り扱うこととする。
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[編集] 概要
1927年3月竣工の井笠鉄道ジ1・2に始まり、以後1930年代前半まで瀬戸内・東海地方を中心とする地方の中小鉄軌道に大量に導入された、自動車の動力装置を流用した一連の日車本店製単端式気動車[1]シリーズの典型例の一つである。
[編集] 車体
当時のバスにならって側板下部を緩やかに絞り込んだ、軽量構造の半鋼製車体である。
窓配置はdD4あるいは4D1(d:乗務員扉、D:客用扉)で、運転台は半室式で車掌台側には乗務員扉はなく、シハ31~34の乗務員扉は1枚扉、ジ41・42の乗務員扉は2枚折戸、客用扉は2枚折戸、そして前面および後部端面は2枚窓で、前面上部には日よけが取り付けられていた。
またジ41・42の方がシハ31~34より若干全長が長かった。
[編集] 機関・変速機
新造時は当時もっとも普及していた自動車であるT型フォードの動力装置をそのまま流用した。このためエンジンはフォードT(20hp/1,500rpm)、変速機も前進2段、後進1段で遊星ギアによる常時かみ合わせ方式[2]を採る、独特の構造のフォード製トランスミッションがそのまま搭載された。
この機関部からの出力はプロペラシャフトを介して後方に伝達され、ベベルギアと平ギアで方向転換と減速の後、動軸を駆動した。
エンジンは台枠前部に装架されていたが、一部車体前面に突き出しており、ラジエーターの取り付けの関係もあって前面には自動車同様のボンネットが突き出していた。
もっともこのフォードTエンジンは入手が容易で整備面でも有利であったものの、鉄道車両の動力源としてはあまりに非力だったのと部品供給面で不安が出てきたため、1936年にフォードA(40hp/2,200rpm)に換装されている。
その後、1939年にはシハ35・36が代燃装置(薪ガス発生炉)を後部端面に設置、翌1940年にはシハ31がこれに倣って改良型(三重鉄式薪ガス発生装置)を装備している。
[編集] 台車
台車は片ボギー式で、前部が菱枠構造の軽量2軸ボギー、後部がコイルバネを用いたウィングバネ式の単台車で、こちらが動軸となる構造であった。
いずれも当時の日車本店の標準設計品で、軸受には走行抵抗軽減を目的としてローラーベアリングが奢られるのが標準仕様であったが、シハ31~34の前部台車に限ってはプレーンベアリングが装着されていた。
[編集] 運用
就役後、シハ31~34はラッシュ時を除く三重鉄道の旅客サービスのほぼ全てを一手に引き受けるようになり、同時に列車運行本数の高頻度化を実現した。
これに対し、当時電化していたにもかかわらずわざわざこの小型ガソリン動車を購入した四日市鉄道では、ほとんど稼動実績が残されておらず、三重鉄道との合併を前提に、伊勢電気鉄道四日市~桑名(泗桑線)延長工事に伴う四日市鉄道四日市駅ー諏訪駅間の譲渡と路線撤去に際し、四日市ー諏訪間の代替路線として一時的に非電化であった三重鉄道の同区間への乗入れ運転の実施、老朽化した小型2軸電車[3]を新造の大型ボギー式電車へ置き換える過程での暫定措置、そして当時の社会経済状況を反映した「経済運転」のため、これらの車両を導入したと考えられている。
事実、新型電車[4]導入後にジ41はそのまま三重鉄道へ貸し出されてシハ31~34と共通運用に充当されており、書類上ジ41・42は合併直前の1930年に三重鉄道へ譲渡され、シハ35・36となっている。
代燃装置の設置後、シハ35・36は狭隘な諏訪駅構内に設置された転車台では転回できなかった[5]ため、日永ー八王子間運用に専用に充当された。
その後は三重交通への統合時に改番が実施され、シハ31~34がナ111~114、シハ35・36がナ121・122と改番[6]された。
燃料統制に伴い早々と上述の代燃化を実施したが、性能低下が著しく、結局内部・八王子線[7]は沿線[8]に官舎があった海軍第二燃料廠[9]の資材援助と関西急行鉄道電力部の工事で1943年12月に部分電化され、さらに1948年9月をもって全線電化が完了したことで不要となり、全車廃車された。一部は車体のみ諏訪駅構内での倉庫、湯の山駅付近でのバスの待合所に転用されたが、その後全て姿を消している。
[編集] 脚注
- ^ 商標名をそのものずばりの「軌道自動車」と呼称する。なお、単端式気動車とは機関を車端部に装架し、逆転機を持たず前後進で同一性能とならない片運転台式の原始的な構造の気動車を指し、運用に当たっては終端駅での方向転換を要し、デルタ線やループ線、あるいは転車台の設置が必要であり、車両と共に転車台もセットで販売されていた。
- ^ このため、操作方法は現在の一般的なマニュアルトランスミッションを装備する自動車とは異なる。
- ^ デ21形21~24。元東京市街鉄道ヨト1で、1372mmから762mmへと約半分に軌間を改軌して使用した。
- ^ デハ二51形51~54。三重交通統合後の形式はモニ210形。1928年田中車両製。
- ^ 車体寸法がシハ31~34と比較してわずかに大きく、しかも後端部に代燃装置を搭載したことから、転車台周辺の建築物と干渉する恐れがあったため、同駅での転回が不可能であった。これに対し、同様に代燃装置を追加したシハ31(および未改造のシハ32~34)については車体長の短さからクリアランスが確保され、転回可能であった。
- ^ 「ナ」は内燃動車の略である。
- ^ 当時は湯の山線を含め、三重線と総称した。
- ^ 内部線泊駅周辺。
- ^ 当時、四日市市に所在した。