上杉憲盛
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上杉 憲盛(うえすぎ のりもり、享禄3年(1530年)-天正3年3月28日(1575年5月8日))は、日本の戦国時代の人。武蔵国の深谷上杉家当主。父は上杉憲賢。正室は太田資時の娘。子に上杉氏憲がいる。通称は三郎。号は静徹。
父・憲賢が成田長泰と結んだ際に姪とされる太田資時の娘(資時の早世後、その弟資正が太田氏を継いだために母とともに実家に戻っていた)を正室に迎えた。当時の武蔵国は、川越夜戦で扇谷上杉家を破った小田原北条氏が勢力を拡大しており、憲盛は苦境に立たされていた。山内上杉家の上杉憲政が上野国を追われると、関東管領としての上杉氏の権威も衰退した。周囲が北条氏に下る中、憲賢父子も苦渋の決断により北条氏に下った。永禄3年(1560年)、父の死とともに憲盛が家督を継いだ。
後に、山内上杉氏の家督を継いだ上杉政虎(謙信)が大軍を率いて関東侵攻を始めると、同族の好しみでこれに寝返るが、北条氏が勢力を回復すると、永禄6年(1563年)に再度北条氏に降るこの時、政虎の命を受けた成田氏長(長泰の子)が憲盛の深谷城を攻撃している。後に氏長が北条氏に降伏すると、娘を氏長の弟・泰喬に嫁がせて和解した。
ところが、越相同盟の締結によって深谷城が上杉氏の勢力下に入ったために上杉政虎に降伏する。その後、同盟破綻後も北条氏側に復帰しなかったために北条氏、更に上杉氏と対立していた甲斐武田氏までが深谷に侵攻する。だが、憲盛は死の直前まで上杉氏の配下として行動しており、深谷上杉家の北条方への復帰は憲盛が死んで氏憲が家督を継いだことによる路線変更によるものと考えられている。