越相同盟
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越相同盟(えつそうどうめい)とは、戦国時代の永禄12年(1569年)に甲斐の武田信玄に対抗するために越後の上杉謙信・相模の北条氏康が結んだ軍事同盟である。
本項目では、これに対抗するために結ばれた武田信玄と安房の里見義弘が結んだ軍事同盟である甲房同盟(こうぼうどうめい)についても解説する。
[編集] 概要
武田信玄は信濃国の領有を、北条氏康は関東平野の制圧を目指して兵を北上させていたが、これに危機を抱いた関東管領上杉憲政は越後の長尾景虎(上杉謙信)を養子として家督と関東管領の地位を譲った。謙信はこの期待に応えて信濃や上野に派兵して武田・北条氏の兵を度々退けた。これに対して信玄と氏康は駿河の今川義元を誘って甲相駿三国同盟を締結して謙信と対抗した。
ところが、桶狭間の戦いで義元が戦死して今川氏の家中で家臣の離反が相次ぐと、信玄は謙信との戦いとなる北上策から東海道に進出する南下策に転換し、永禄11年(1568年)駿河を攻めて今川氏真を追放する。これに対して氏康は同盟の破棄を通告して武田軍との戦いを開始した。だが、この時北条氏は前年(永禄10年(1567年))の三船山合戦における対里見氏戦の敗北によって上総の大半を失う事態に陥っており、その結果として北に上杉氏、東にその盟友の里見氏、そして新たに武田氏を敵として抱える事になった。このため氏康は信玄との対抗上、上杉謙信との和睦に迫られる事になった。
北条側の対上杉戦線の最前線にいた北条氏照・氏邦兄弟が上杉側の北条高広に申し入れを行い、上野の国人領主である由良成繁が仲介にあたった。その結果、永禄12年(1569年)6月に「越相同盟」が締結される事となった。
この同盟によって関東における北条・上杉氏の勢力範囲が定められ、北条氏は上杉氏に武蔵松山城など武蔵国北部一部を割譲して上野における上杉氏支配を認めること、上杉氏が長年その正統性を認めてこなかった足利義氏の古河公方就任を認めること、氏康の子・氏秀(近年では異説もある)が謙信の養子となることなった。
だが、上杉・北条の戦略観の違いや北条氏内部に武蔵北部の割譲に異論が出るなど、足並みが揃わず、2年後に氏康が病死すると、その遺志を受けた嫡男北条氏政よって越相同盟は破棄されて武田・北条間の同盟は復活した。ただし、謙信と養子・景虎(氏秀)の養子縁組は解消されず、男子のいない謙信の後継になる可能性が残されたため、直ちに北条・上杉両氏間の大規模な戦闘は勃発せず、謙信の死まで上野は上杉領・武蔵以南は北条領という原則は守られ続けた。
[編集] 甲房同盟
越相同盟成立は謙信の軍事力を頼りに北条氏の侵攻を食い止めてきた関東の中小大名にとっては衝撃であった。北関東と並んで北条・上杉両氏紛糾の原因となった房総半島については強敵である武田氏と三船山での勝利以後優位に立った里見氏を同時に敵に回すのは困難であるという判断から、下総・上総・安房の3国を里見領とするを北条氏が認め、謙信が北条・里見両氏の和睦を取り持つ事になった。
だが、里見義弘は里見・北条の戦いは半世紀に及ぶもので今更妥協出来る性質のものではない事、北条氏の傘下として下総国主の地位を守り続けてきた鎌倉時代以来の名門千葉氏が大人しく里見氏の軍門に入るとは考えられない事を理由にこれを拒み、常陸国の佐竹義重とともに単独でも北条氏と争う構えを見せた。
そこに目をつけた武田信玄は庶流の上総庁南城城主(上総武田氏宗家)武田豊信(一説には信玄3男の信之と同一人物とも)を義弘の下に派遣して、武田・里見両氏の同盟について協議した。越相同盟締結の2ヵ月後にいわゆる「甲房同盟」が締結される事となった。
これによって、里見氏は一時的な安堵を得たが、北条・武田両氏の和解後はその存在意義を失って自然消滅したと考えられている。とはいえ、上杉氏が南関東から事実上撤退したと言う事実は変わりなく、里見義弘は天正5年(1577年)に北条氏政との和議に追い込まれるのである。