上杉綱勝
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上杉 綱勝(うえすぎ つなかつ、1639年1月25日(寛永15年12月22日) - 1664年6月30日(寛文4年閏5月7日))は、出羽国米沢藩の第3代藩主。第2代藩主・上杉定勝の次男。官位は従四位下、播磨守、侍従。正室は保科正之の娘。正式な名のりは藤原綱勝(ふじわら・の・つなかつ)。
正保2年(1645年)、父・定勝の死により藩主となる。しかし寛文4年(1664年)、嗣子も無く、世嗣も指名しないまま急死してしまった。本来ならば上杉氏は無嗣子断絶となるところであったが、綱勝の岳父に当たる保科正之の仲介などもあって、綱勝の妹(定勝の三女)が嫁いでいた高家の吉良義央の長男・上杉綱憲が末期養子として綱勝の後を継ぐことで家名存続を許された。しかしこのとき、米沢藩の石高は30万石から15万石に減少された。にも関わらず、藩士の召し放ち(リストラ)を行なわなかったため、財政難に拍車がかかることとなった。
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