米沢藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
米沢藩(よねざわはん)は、出羽国置賜郡にあって現在の山形県東南部(置賜地方)を治めた藩。藩庁は米沢城(米沢市)。藩主は上杉氏。家格は外様で国主、石高は30万石、のち15万石から18万石。
目次 |
[編集] 歴史
米沢は戦国時代である1548年から1589年、1590年から1591年の間に伊達氏の本拠地であったが、豊臣秀吉によって伊達政宗が陸奥岩出山に転封された後、会津に入った蒲生氏、ついで上杉氏の支配下に入った。上杉景勝は家老・直江兼続に30万石(一説には甘粕氏の刈田郡白石城を含め32万石)を与えて米沢に入れ、伊達氏、および山形の最上氏に対する抑えとした。
しかし上杉氏は関ヶ原の戦いに先立って徳川家康に敵対したため、1601年(慶長6年)に上杉景勝は120万石を30万石に減封され、居城を会津から米沢に移させられた。兼続は米沢城を景勝に譲り、米沢藩が成立する。米沢藩領は、はじめ上杉氏の旧会津領120万石のうち出羽国置賜郡18万石と陸奥国伊達郡および信夫郡(福島県福島市)12万石からなっており、米沢からは峠を隔てた陸奥側の抑えとして福島城に重臣・本庄氏を城代として置いた。
1664年(寛文4年)に3代綱勝が嗣子を定めないまま急死し、本来なら取り潰しとなるところ、綱勝の舅である会津藩主保科正之(徳川家光の実弟)の尽力によって、綱勝の妹と高家の吉良義央の間に生まれた子・綱憲が末期養子に認められ、半減の置賜郡内15万石で存続が認められた。
相次ぐ減封にも拘らず、家臣の数はほぼ120万石の頃のままだった。このため、当然のごとく財政難に苦しめられ、民衆も困窮。これに心を痛めた8代目の重定は幕府へ領地を返上しようと真剣に考えるほどであったが、9代藩主治憲(鷹山)の藩政改革で財政の再建を果たした。また、置賜郡内の旧領のうち3万石(斉憲の代に上杉領となる)、越後国内に1万石の天領を幕府から預かっている。
戊辰戦争では会津藩の討伐をはかる新政府軍に対し、保科正之への恩義もあることから仲介に務めるが、果たせずに奥羽越列藩同盟に加わり、その中核を担うこととなった。米沢藩は庄内および越後に出兵したが新政府軍に敗れ、戦後の敗戦藩の処分で14万7000石に減封。翌1869年(明治2年)に蔵米支給の支藩米沢新田藩を併合した。1871年(明治4年)廃藩置県によって米沢県となった。その後、置賜県を経て山形県に編入された。藩主家は1884年(明治17年)、伯爵となり華族に列せられた。
[編集] 藩政
米沢藩は120万石からの大減封を受け、しかも佐渡金山を失って大幅な収入減を受けたが、越後時代から付き従ってきた家臣の召し放ちを極力行わず、6000人と言われる家臣団を維持し、針小棒大な表現ではあるが、上杉家は、120万石規模の家臣団を維持したと云われている。そのために、江戸時代初期から厳しい財政難に苦しめられた。
米沢城は、伊達氏時代からの粗末な平城であったが殆ど拡張を行わず、下級武士は手狭な城下町の外に住まわせて、半農半士の生活を送らせた。このような下級武士のことを原方衆という。
それでも初期の米沢藩は直江兼続の執政によって新田開発に努め、表高30万石に対して実高51万石と言われるまでに開発を進めたが、1664年の15万石への半減で藩財政は再び大きな打撃を受けた。これ以降の実高は30万石程度(幕末の18万石への加増時には35万石前後)であるが、依然として家臣団は減らさなかったので、財政はますます厳しくなった。にも拘らず、綱憲は実の両親である吉良義央夫妻の浪費による負債をしばしば立て替えたと言われている。
因みに、明治初年の史料を持って比較すると、加賀102万石の前田家の場合は、内高が120万石で、士族7077戸、男12414名、卒族戸数9474戸、男14029人、であった。一方の米沢藩14万7千石(列藩同盟処分の削封後)の上杉家の場合は、内高が30万石で、士族3425戸、男7565名 卒族戸数3308戸、男11980人であった。この比較から、米沢藩の厳しさは一目瞭然である。
綱憲の孫・重定などは派手好きで奢侈に走り、ついに借財が莫大な額に上ったので、幕府に15万石の返上を願い出た程であった。1767年(明和4年)、17歳で重定の後を継いだ養子の治憲(鷹山)は竹俣当綱と莅戸善政らを登用して藩政改革に乗り出し、倹約令発布、農村統制の強化、桑や漆の植樹、縮織技術の導入、絹織物の専売制実施等の財政再建と殖産興業政策を行って藩財政を立て直した。また、特産品の青苧、紅花、蝋等も藩財政を助けた。また、儒学者細井平洲を招いて藩校の興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)を設け、藩士の教育にあたった。
米沢藩では藩主上杉家の実質上の祖である上杉謙信が藩祖として祀られ、その遺骸を納めた甕は遠く越後春日山(新潟県上越市)から米沢に運ばれて米沢城本丸内に安置されていた。上杉謙信崇拝に基づいた藩風は越後以来の家臣の召し放ちが少なかったこともあって独特の誇り高い気風を生んだが、その一方で体面を重んじ、頑固で保守的な面があって、そのことが鷹山の藩政改革の障害となったという見方もある。
しかし、米沢藩の改革は成功し、治憲・治広の代にには借財を返済し、5千両の囲い金(備蓄)もできた。茂憲は、廃藩置県の際、旧藩士らに旧藩の囲金や上杉家の備金などから10万両余を分与。また、転じての沖縄県令としての治績も評価は高い。
米沢藩のフロー(歳入の部)=米納高+金納額/年
30万石時代…5万石+1万両(綱勝相続時)、 15万石時代…3万石+3万両(治憲相続時)、 14万8千石時代(列藩同盟処分の削封後)…6万石+15万両
米沢藩のストック(資本の部)=資産-負債
定勝相続時…15万両、治憲相続時…マイナス10万両、 治広相続時…5千両、斉憲相続時…5万両
絹(疋)は米(石、斗)、銀(貫、匁)・銭(文)は金(両、分)に換算、ただし時代により相場変動あり、上記金額は概算)
(参考文献:「御家建て直し」「上杉鷹山の失敗(成功の誤植ではない)に学ぶ」「日本史地図」「武田一族」「米沢藩」「羽前俗謡抄」ほか)
[編集] 歴代藩主
- 上杉(うえすぎ)家
外様・国主・大広間 30万石→15万石→18万石→14万7千石
- 景勝(かげかつ)〔従三位・中納言、弾正少弼のち越後守〕長尾政景の次男。母方の叔父である上杉謙信の養子となる
- 定勝(さだかつ)〔従四位下・左近衛少将〕
- 綱勝(つなかつ)〔従四位下・播磨守、侍従〕
- 綱憲(つなのり)〔従四位下・弾正大弼、侍従〕吉良義央の長男(定勝の孫)。綱勝の末期養子 15万石に減知
- 吉憲(よしのり)〔従四位下・民部大輔、侍従〕
- 宗憲(むねのり)〔従四位下・弾正大弼、侍従〕
- 宗房(むねふさ)〔従四位下・民部大輔、侍従〕
- 重定(しげさだ)〔従四位下・大炊頭、侍従〕
- 治憲(はるのり)〔従四位下・弾正大弼のち越前守、侍従〕秋月種美の次男(綱憲の曾孫)
- 治広(はるひろ)〔従四位下・弾正大弼、少将〕重定の実子
- 斉定(なりさだ)〔従四位下・弾正大弼、少将〕畠山勝煕の長男(重定の孫)
- 斉憲(なりのり)〔従四位上・弾正大弼、中将〕 18万石に加増
- 茂憲(もちのり)〔正二位・式部大輔、侍従〕 14万7千石に減知 伯爵
[編集] 支藩
- 米沢新田藩
米沢新田藩(よねざわしんでんはん)は米沢藩の支藩。1719年(享保4年)に5代藩主吉憲が弟の勝周に領内の新田分1万石を分与して成立したが、米沢城内を居所とする藩内分家であった。藩主はたびたび実子がなく本藩の藩主から養子を迎えている。
明治維新後、本藩の所領削減もあって存続が難しくなり、1869年(明治2年)に本藩に併合された。
[編集] 歴代藩主
- 上杉(うえすぎ)家
外様 1万石 (1719年~1869年)