両統迭立
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両統迭立(りょうとうてつりつ)は、鎌倉時代における天皇の皇位継承の方法のことであり、後嵯峨天皇の皇子である、後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)の両血統の天皇が交互に即位したこと、及び天皇擁立を巡る対立のことである。
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[編集] 問題の所在
根本の原因は、後嵯峨天皇の次の皇位継承にある。寛元4年(1246年)、後嵯峨は皇子久仁親王(後深草天皇)に譲位した後、文応元年(1260年)に後深草の同母弟恒仁親王(亀山天皇)に譲位させた。その際、後嵯峨上皇は、亀山の皇子世仁親王を皇太子とし、文永11年(1274年)に後宇多天皇として即位させた。後嵯峨上皇崩御後は、亀山上皇が院政を行った。
[編集] 持明院統と大覚寺統の対立
その事に不満を持った後深草上皇の一派が鎌倉幕府に働きかけ、弘安10年(1287年)、持明院統の後深草の皇子熈仁親王(伏見天皇)に譲位させる。
伏見天皇は、永仁6年(1298年)に自分の皇子胤仁親王(後伏見天皇)に譲位したため、大覚寺統の反発を買い、大覚寺統の鎌倉幕府への巻き返し工作が行われ、後伏見天皇は即位3年で大覚寺統の後宇多の皇子邦治親王(後二条天皇)に譲位させられた。
[編集] 両統迭立の成立
しかし、この両統の対立を重く見た鎌倉幕府は、持明院統と大覚寺統を交互に即位させる事とし、後二条天皇の皇太子を持明院統の後伏見の弟富仁親王(花園天皇)とした。後二条は在位7年の後に崩御し、次の花園在位中の文保元年(1317年)には、文保の御和談が行われたが、両統の話し合いは決裂し、鎌倉幕府は、花園天皇の皇太子を大覚寺統の後二条の弟・尊治親王(後醍醐天皇)に、後醍醐天皇の皇太子を大覚寺統の後二条の皇子邦良親王、その次を持明院統の後伏見の皇子量仁親王にすることを提案する。
[編集] 後醍醐天皇の登場と南北朝並立時代の到来
次の花園も在位10年で後醍醐に譲位し、両統迭立が成立するかと思われたが、後醍醐在位中に皇太子邦良親王が死去し、後醍醐は、正中元年(1324年)の正中の変、元弘元年(1331年)の元弘の変と立て続けに倒幕を企てたため、鎌倉幕府は、邦良親王の次に予定されていた持明院統の量仁親王を光厳天皇として立て、皇太子には大覚寺統から邦良親王の遺児康仁親王を立てた上で、元弘2年(1332年)、後醍醐を隠岐島へ流した。
ここに、持明院統と大覚寺統の2人の天皇と、それぞれが用いた正慶、元弘の2つの元号が並立する事態が初めて生じ、南北朝時代への突入が準備された。2人の天皇が立ったのは、平安時代末期の治承・寿永の乱の際に平家とともに都落ちした安徳天皇と都で新たに立てられた後鳥羽天皇の在位が重複した例がある。この事態は、1年余りで平家が滅亡し安徳天皇も入水したことで解消している。しかし、元号が並立したのは1332年の元弘と正慶が日本史上初めてである。
元弘3年/正慶2年(1333年)、隠岐島を脱出した後醍醐の挙兵に足利尊氏なども呼応し、鎌倉幕府が滅んだたため、大覚寺統での皇統統一が計られると思われたが、建武の新政の失敗で、尊氏が後醍醐に反旗を翻し、延元元年/建武3年(1336年)、持明院統の光厳の弟豊仁親王を光明天皇として擁立した(北朝)。尊氏に幽閉された後醍醐は京を脱出し、吉野で自己の皇位の正当性を主張し(南朝)、ついに皇統が完全に分裂する南北朝並立の時代が到来した。延元3年/暦応元年(1338年)、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられて室町幕府を開いた。
[編集] 南北朝合一
この並立は、元中9年/明徳3年(1392年)に足利義満の斡旋により、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡すことでようやく解消された。この南北朝合一の「明徳の和約」により以後は両統から交互に天皇を擁立する事と決められたが、この約束はすぐに反故にされ、以後皇統は持明院統に統一される。このことに反発した南朝の遺臣が、南朝の後裔を担いで北朝の皇室および室町幕府に対する反抗を15世紀半ばまで続けた。これを後南朝という。(この三種の神器は偽物という説もある)
[編集] 両統迭立成立の背景
承久の乱後、鎌倉幕府は朝廷による倒幕計画の再燃を恐れて皇位継承への介入を度々繰り返した。両統迭立を続けた背景には、朝廷勢力の弱体化図りたいとする思枠があったと考えられる。とりわけ、亀山天皇や伏見天皇のように朝廷の権威回復に積極的だった天皇(あるいは院政)の時期には、それに対抗する目的で対立する皇統への早期譲位を促した。そのために皇位継承の受け皿として対立する2つ皇統を残して反幕府的な傾向を見せる天皇や上皇を政治から排除しようとしたと考えられているが、却ってそれが問題を複雑化させていき、皇位継承問題の最終的な解決を困難にしていった。公家社会においては、当初こそは天皇の交代とともに天皇や治天の君を抱えた皇統へと支持を変えて行くのが一般的であったが、皇統の並立が解消される見通しがないことが明白となった14世紀(後宇多・伏見の子供達の世代)に入ると公家社会の中に支持皇統による一種の派閥が生じるようになり、更には両皇統を上手く立ち回るものも現れるなど混迷を深め、それが次第に幕府による朝廷制御が困難にしていった。その結果として後醍醐天皇の討幕運動を招く一因となったのである。
[編集] 関連事項
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