中甚兵衛
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中甚兵衛(なか・じんべえ 寛永16年(1639年) - 享保15年9月20日(1730年10月31日))は江戸時代初期の農民。中九兵衛の次男。兄は太兵衛。
河内国河内郡今米村(現大阪府東大阪市今米)の庄屋。大和川の付け替え工事に奔走した人物。周辺の芝村の曽根三郎右衛門と吉田村の山中治郎兵衛らの協力を得て、江戸幕府に大和川付け替えの計画を40年にわたって嘆願し続けた。
目次 |
[編集] 年表
- 1638年(寛永15年)…吉田川が氾濫。父、中九兵衛が度重なる水害に対策を考え始めた。
- 1639年(寛永16年)…甚兵衛、誕生。
- 1649年(慶安2年)…八尾木村で大和川(久宝寺川)が氾濫。
- 1652年(承応元年)…吉田川が再度氾濫。甚兵衛、父とともに水害対策を考える。
- 1656年(明暦2年)…父、中九兵衛が沙汰を得られないで死去。兄太兵衛と甚兵衛が遺志を継ぐ。
- 1657年(明暦3年)…甚兵衛が江戸へ出府し直訴を行った。
- 1660年(万治3年)…幕命により大和小泉藩藩主片桐石見守貞昌、勘定奉行岡田豊前守善政が付替えの見分を行う。
- 1671年(寛文11年)…幕命により淀川浚利奉行の永井右衛門直右、岡部主税助高成、藤懸監物長俊の三名が大和川筋の見分を行う。
- 1674年(延宝2年)…茨田郡仁和寺村(寝屋川市)で淀川が氾濫。ついで柏原村で大和川が氾濫。
- 水没した地域は、南北では現在の枚方市から堺市まで、東西では生駒山麓から大阪市までであった。
- この年から中九兵衛、乙川三郎兵衛らが付替え運動を本格的に開始する。
- その内容は、「大和川と石川との合流点から西の方へ付け替えるほかない」というものであった。
- 運動は、幕府への訴願活動や新川筋村々の同意を求めること中心になった。
- 河内大水害「寅年の大洪水」が起こる。
- 代官万年長十郎頼治が巡視。
- 10月に付替えの幕命下る。
[編集] 関係者
[編集] 幕府
- 片桐石見守貞昌…大和小泉藩藩主。1660年(万治3年)に五畿内及び東海道の水害地巡察。付替えの見分を行う。
- 岡田豊前守善政…勘定奉行。1660年(万治3年)に五畿内及び東海道の水害地巡察。付替えの見分を行う。
- 永井右衛門直右…淀川浚利奉行。1669年(寛文9年)から淀川の堤防修築工事を行い、同11年に大和川筋の見分を行う。
- 岡部主税助高成…淀川浚利奉行。1669年(寛文9年)から淀川の堤防修築工事を行い、同11年に大和川筋の見分を行う。
- 藤懸監物長俊…淀川浚利奉行。1669年(寛文9年)から淀川の堤防修築工事を行い、同11年に大和川筋の見分を行う。
- 稲葉石見守正休…若年寄。1683年(天和3年)に五畿内の治水の再点検を精力的に実施。
- 彦坂壱岐守重紹…大目付。1683年(天和3年)に五畿内の治水の再点検を精力的に実施。
- 大岡備前守清重…勘定頭。1683年(天和3年)に五畿内の治水の再点検を精力的に実施。
- 稲垣対馬守重富…若年寄。1703年(元禄16年)畿内と長崎の巡見。
- 安藤筑後守重玄…大目付。1703年(元禄16年)畿内と長崎の巡見。
- 荻原近江守重秀…勘定奉行。1703年(元禄16年)畿内と長崎の巡見。
- 万年長十郎頼治…代官、堤奉行。大和川付け替え工事の責任者。
[編集] 河内農民
- 乙川三郎兵衛…芝村の庄屋。中甚兵衛の父、中九兵衛とともに水害対策を考えた。
- 曽根三郎右衛門…芝村の庄屋。中甚兵衛の同志。
- 山中治郎兵衛…吉田村の庄屋。中甚兵衛の同志。
- 中九兵衛…甚兵衛の父。水害対策を考え始めた。
- 中九兵衛…甚兵衛の子。付け替え工事に協力。
[編集] 商人
- 河村瑞賢…大和川の治水に取り組んだが、失敗。
[編集] 助役を命ぜられた藩
- 姫路藩…工事を当初、担当。藩主本多中務大輔忠国の死去にともない担当を外れた。
- 岸和田藩…姫路藩のあとを引き継いで工事を担当。時の藩主は岡部美濃守長泰。
- 明石藩…姫路藩のあとを引き継いで工事を担当。時の藩主は松平左兵衛督直常。
- 三田藩…姫路藩のあとを引き継いで工事を担当。時の藩主は九鬼大和守隆久。
- 高取藩…姫路藩のあとを引き継いで工事を担当。時の藩主は植村右衛門佐家敬。
- 丹波柏原藩…姫路藩のあとを引き継いで工事を担当。時の藩主は織田山城守信休。
[編集] 子孫
甚兵衛から数えて十代目の中九兵衛(大阪市東住吉区在住)が『大和川叢書(そうしょ)』シリーズを刊行している。[1]
- 第一弾「於吉奈我河(おきなががわ)考」(A5判、136ページ):自身で執筆。万葉集の歌にある「息長(おきなが)川」が平野川だと主張。