中道政治
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中道政治(ちゅうどうせいじ)は、右派や左派あるいは保守や革新のどちらにも偏らずに中正の政策を行う政治。このような政治勢力は中道派と呼ばれ、フランス革命では、平原派あるいは沼沢派などと呼ばれた。中道主義ともいう。
[編集] 日本における中道
冷戦下の日本の政界では、市場経済志向・親米の保守と、社会主義志向・親ソ連の革新とに、はっきり分かれていた。そこで、保守にも革新にも与せず、イデオロギーに捉われない中間的な政策を目指した立場が中道であった。
具体的には、公明党・民社党・社会民主連合が中道主義を標榜した。これらの政党は、1960年代から1970年代にかけて、高度経済成長とその終焉に伴う、価値観の多様化を背景として、勢力を伸ばした。1970年代半ばには、自由民主党と民社党の間で中道新党構想があったが、当時は両者の間に越えがたい溝があり、実現しなかった。また、同じ頃、新自由クラブ・民社党・社民連が中道政党の結成を目指したこともあった。
この時期には、自民党も最大野党・社会党の政策を取り入れ、中道化を進めた。かねてから社会党の主張していた福祉や労働、環境などの政策は、その一部または全部が自民党政権によって実現された。このことは、自民党の長期政権を安定させると同時に、社会党の停滞をいっそう強める結果となった。
1990年代前半には、日本新党や新党さきがけといった中道新党が躍進し、1993年には、新生党や社会党、公明党、民社党、社民連などと共に与党となった。この現象は、旧来の政党、とくに自民党と社会党の55年体制に対する、無党派層の強い不満に支えられていた。こうした流れは、離合集散を繰り返しつつ、「第三の道」を掲げる民主党へと受け継がれることとなった。
1990年代後半からは、小選挙区制の導入に伴って、少しでも多くの有権者を獲得する必要から、二大政党の中道化がさらに進み、両者の政策には大きな違いは見られなくなっている。このことは、多様な価値観を持つ有権者に、「自民も民主も同じ」という不満を生じさせている。
なお、現在では、ひろく左や右に偏っていない意見や団体を「中道」と呼ぶことが一般的であり、「平均的」または「標準的」という意味合いが強い。このとき、やや左寄りのものを中道左派、やや右寄りのものを中道右派と称することがある。この場合には、自民党や民主党も中道に含まれることがあり、また、上記の中道を標榜していた政党が外されることもある。
ただし、どの意見を平均的/標準的とするかは人によって見解が異なり、「自分は偏っていない」ことを装う手段として、「中道」を自称することもあるため、どこまでが中道かということは一概に言えない。
[編集] 中道の危険性
中道は、「正」や「善」とは必ずしも関係がない。中道であることを穏健な立場と同一視することは危険である。例えば、アメリカでは、19世紀のある時期まで、アフリカ系奴隷の無条件解放を求める意見は、中道とはほど遠い、過激で急進的なものと見なされていた。
このように、何をもって「中道」と見なすかは、時代と地域によって異なるのであり、ときの対立する勢力の間の中間に位置することが、「中道」とされるだけである。ある立場に対して正や善の判断を下すには、その立場をより上位の視点から評価する哲学が必要となる。