海部俊樹
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海部 俊樹(かいふ としき、1931年1月2日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(16期)。元内閣総理大臣(76・77代)。
初の昭和生まれの内閣総理大臣でもある。現在は自民党最高顧問。派閥は二階派に属す(最高顧問)。第43回衆議院議員総選挙以降、現職では最古参の衆議院議員である。
生年月日 | 1931年(昭和6年)1月2日 |
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出生地 | 愛知県名古屋市 |
出身校 | 早稲田大学第二法学部(夜間部)卒業 |
学位・資格 | 学士 |
前職・院外役職(現在) | 衆議院議員秘書 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
衆・懲罰委員会委員 |
世襲の有無 | 無 |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
愛知9区 |
当選回数 | 16回 |
所属党派(現在) | 自由民主党(二階派) |
党役職(現在) | ‐ |
会館部屋番号 | 衆・第2議員会館540号室 |
ウェブサイト | 海部俊樹オフィシャルホームページ |
目次 |
[編集] 略歴
- 1931年 - 愛知県名古屋市に写真館を経営する家に生まれる
- 1948年 - 旧制東海中学(現:東海高校)卒業
- 1951年 - 中央大学専門部法科(法学部)(昼間部)卒業
- 1952年 - 早稲田大学第二法学部(夜間部)編入
- 1954年 - 早稲田大学第二法学部(夜間部)卒業
- 1954年 - 早稲田大学大学院進学(中退)
- 1960年 - 11月20日 全国最年少で衆議院議員に当選
- 1966年 - 8月1日、労働政務次官(第1次佐藤第3次改造内閣)
- 1974年 - 12月9日、内閣官房副長官(三木内閣)
- 1976年 - 12月24日、文部大臣(福田内閣)
- 1985年 - 12月28日、文部大臣(中曽根内閣)
- 1989年 - 8月9日第76代内閣総理大臣
- 1990年 - 2月28日第77代内閣総理大臣
- 1990年 - 12月29日、第2次海部改造内閣発足
- 1991年 - 11月、内閣総理大臣辞任
- 1994年 - 6月、自由民主党離党。7月、自由改革連合代表。12月、新進党初代党首
- 1998年 - 1月、自由党最高顧問
- 2000年 - 4月、保守党最高顧問
- 2002年 - 12月、保守新党最高顧問
- 2003年 - 11月、保守新党の解党・自由民主党への合流により、自由民主党に復党
[編集] 政治姿勢
衆議院選挙初当選以来三木派に所属し、三木武夫の秘蔵っ子として知られていた。また海部自身もクリーンな政治家三木を尊敬していた。「理想の政治家は?」との問いに対しては、常に「三木武夫」と回答するほどである。また三木が総裁選で田中角栄に敗れた時には大泣きしたという逸話もある。
三木派が河本敏夫の派閥になって以降は、1994年に離党するまでの間、名実共にナンバー2として河本派を支えた。しかし、派の若手議員の面倒をあまり見なかったため、「財布閉じき」と陰口を叩く声もあった。
早稲田大学雄弁会の先輩である竹下登との親交が深かったため、「現住所河本派・本籍竹下派」と揶揄された。「竹下が総理になった暁には、河本派を離脱して竹下のもとに馳せ参じるのでは?」と囁かれた事もある。
専門は文教関係であり、文部大臣を二回経験している。(但し目立った施策はない。)
[編集] 自民党総裁就任と辞任
宇野宗佑が第15回参議院議員通常選挙の大敗北により辞任することになったが、宇野を指名したのが竹下派であったため、竹下派からは宇野の後任の総裁選への出馬を見送ることになった。総裁選では海部の他に、林義郎と石原慎太郎が出馬したが、竹下派の支持を得た海部が両者をおさえて総裁に選ばれた。実質的に竹下派が海部を指名したと言われる所以である。
参院選の結果、自民党が過半数割れに追い込まれたことにより、国会の首班指名において衆参のねじれが生じることとなった。自民党が依然過半数を占めていた衆議院は海部俊樹、野党が過半数を確保した参議院は日本社会党の土井たか子を指名した。日本国憲法第67条第2項の規定に基づき、両院協議会にて協議されたが両院の意見は一致せず、衆議院にて指名された海部が内閣総理大臣に就任した(衆議院の優越)。
海部が首相に就任した頃は、自民党が長期にわたり政権を担当し、政権が安泰なまま派閥抗争に明け暮れ、また半ば強権的ともいえる国会運営が常態化し、かつ自民党以外の選択肢となり得る政党も育っておらず、日本国民の中で閉塞感が高まっていた。それだけに、三木武夫の清新なイメージを受け継いで颯爽と登場した海部に寄せられる期待感は大きかったが、それが失望に変わるのに時間は掛からなかった。海部は竹下登との親交が深かったため、「隠れ竹下派」と揶揄されており、同じ三木の弟子でも海部と異なり「三木精神」を継承していこうとする立場の鯨岡兵輔や坂本三十次からはその竹下派に擦り寄る姿勢が厳しく批判された(皮肉なことに坂本は第2次海部内閣では内閣官房長官として海部を支えることになる)。また海部は所詮、消去法で選ばれた「看板」でしかなく、党内は相変わらず派閥抗争に明け暮れていた。自民党総裁にして内閣総理大臣でもある海部は、本来味方であるはずの自党に振り回され、主導権を握れずに時間だけが経過していった。
そして、政治改革法案が国会で廃案となったことを受け、「重大な決意」と発言。これは衆議院の解散総選挙を匂わせる発言であった。「伝家の宝刀」の異名を持つ解散権は、内閣の専横事項と認識されていた。しかし、自民党内では方々からこの発言に反発する声が沸き起こった。特に、海部をバックアップするはずの竹下派は明確に不支持を表明し、結果的には海部の求心力のなさを浮き彫りにしただけであった。海部は解散に踏み切ることが出来ず、発言の責任を取る形で辞任せざるを得なかった。湾岸戦争の自衛隊派遣論争の際にも金だけ出して人出さない、一国平和主義等の批判を浴び、後の小泉政権における、テロ対策特別法やイラク派遣の際の、反面教師になった。
[編集] 首相在任中の施策
- 資金提供
[編集] 自民党離党、新進党党首へ
1994年5月25日、自民党総裁の河野洋平が、党の政権復帰のため日本社会党、新党さきがけと自社さ連立政権構想で合意し、首班指名で社会党の村山富市に投票することを決めると、これを拒否して離党。連立与党の支援を得て首班指名に立候補するが、自民党からの造反は期待されたほどは起こらず、決選投票で敗れることになる。
[編集] 自民党復党
新進党解党後は1年1ヶ月の無所属暮らしを経て、自民党との連立政権に加わった自由党に入党。2000年の小沢自由党分裂の際には、自民連立継続派の保守党に所属する。その後の保守新党とその吸収合併を経て、2003年に自民党に復党した。なお復党後は古巣に当たる高村派には戻らず、二階俊博ら一緒に復党した旧保守新党議員らと二階グループを結成した。
また自民党を離党した際に自民党本部の八階ホールにある歴代総裁肖像画展示から海部の肖像画のみ撤去されたが、自民党復党後に再び展示されるようになっている。このため、一部の悪意ある者からは「肖像画復活のために復党した」などの嫌味の声も聞かれた。
[編集] 人物・エピソード
[編集] ネクタイ
水玉模様のネクタイがトレードマークである。これは、三木内閣の官房副長官時代、スト権スト問題でテレビの討論番組に出演した際、帰宅もままならぬ事から、連日連夜同じ水玉柄のネクタイをしていた事を視聴者に指摘され、それを自らのトレードマークにしたものである。
[編集] 29
中央大学入学と共に中央大学辞達学会(弁論部)に所属。中央大学卒業後、同郷出身の代議士河野金昇の書生を務めていた。その後、早稲田大学夜間部に入学。早稲田の雄弁会所属。議員秘書の傍ら早大雄弁会で弁論術の研鑚及び人脈作りにいそしむ。同年代の雄弁会員には渡部恒三がいる。
1960年に行われた第29回衆議院議員総選挙に出馬、サイフは落としてもカイフは落とすなというキャッチフレーズで当選した。この時29歳であった事から、「29回総選挙に29歳で初当選したから、29年後には総理大臣になる」と公言していた。自民党内では傍流である三木派に属していた事から、この言葉は半ば冗談のように受け取られ、また本人も講演会等の挨拶におけるリップサービス(ネタ)にしていた。
ところが、初当選から29年後の1989年、海部は内閣総理大臣に就任した。1994年6月、自社連立に反対した海部は、6月29日に行われた首班指名選挙で、自民党と社会党が推す村山富市と争ったが決選投票で敗れ、半年後には新進党初代党首に。
[編集] きんさんぎんさん
記録的な長寿で話題となった双子姉妹、成田きんと蟹江ぎんは生前、「尊敬する政治家」として海部の名を挙げていた。
[編集] 家族・親族
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 海部俊樹オフィシャルホームページ(公式サイト)
- 自由民主党愛知県支部連合会
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第75代 宇野宗佑 |
第76・77代 1989 ‐ 1991 |
第78代 宮澤喜一 |
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