二階堂主膳助
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二階堂主膳助(にかいどうしゅぜんのすけ、寛永8年1632年~没年未詳) 喜連川家家臣
小弓公方家家臣椎津行憲の子孫で、先代の椎津下総守主殿が、椎津家が鎌倉時代の名族二階堂氏の庶流であることから改名したと思われる。
正保4年1647年に喜連川藩で起きた喜連川騒動の時、高野修理や梶原平左衛門等に加担し、幕府にその罪を罰せられたが、若干15歳の家老であったため、減罪され白河藩主榊原忠次(松平忠次)に預けられた。
事件の15年後で、4代喜連川昭氏(22歳)の時、この罪を許され、喜連川藩の初代国老となった。
以後、喜連川藩の家老は二階堂家だけとなり、歴代国老は二階堂家当主の定席となった。
しかし、12代喜連川縄氏(15代将軍徳川慶喜の実弟)の時の二階堂親子は、藩主との折り合いが悪く保身のため、藩主が会津藩主松平容保と結託していると官軍に訴え出たが、調査の結果「その事実はなかった。」とされ、斬首、さらし首の上、断絶となった。
この喜連川二階堂家は事件後、喜連川の地を追われ波乱万丈の一生をよぎなくされたが中山競馬場の創設に大きく貢献した大宮源次郎氏がその子孫である。