京極高厚
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 宝暦3年(1753年) | |||
死没 | 天明元年5月12日(1781年6月3日) | |||
別名 | 兵勝、大膳(通称) | |||
氏族 | 京極氏 | |||
父母 | 父:京極高常、母:京極高本の次女 | |||
妻 | 正室:永井直常の娘。 継室:池田政方の娘 |
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子 | 1男 |
宝暦8年(1758年)6月3日家督を相続する。生涯、表高家衆に所属し、高家職には登用されなかった。明和6年(1769年)12月22日将軍徳川家治に御目見する。天明元年(1781年)5月12日死去、享年29。
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京極高厚(きょうごく たかあつ)は、但馬豊岡藩の第9代(最後)の藩主。
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時代 | 江戸時代後期(幕末)から明治時代 | |||
生誕 | 文政12年5月29日(1829年6月30日) | |||
死没 | 明治38年(1905年)12月27日 | |||
別名 | 錦三郎、鑑三郎、鑑吉郎(幼名) | |||
諡号 | 蕉窓 | |||
官位 | 従五位下、飛騨守。 正五位、従三位 |
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藩 | 但馬豊岡藩主 | |||
氏族 | 京極氏 | |||
父母 | 父:京極高行、母:古山氏 | |||
妻 | 正室:島津忠徹の娘・艶。 継室:勝田良彊の養女・小林氏 |
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子 | 1男2女(長男:京極高義) |
文政12年(1829年)5月29日、第8代藩主・京極高行の長男として江戸麹町邸で生まれる。弘化4年(1847年)、父の死去により家督を継いで藩主となり、同時に従五位下、飛騨守に叙任する。嘉永2年(1849年)、駿府加番となり、嘉永4年(1851年)に大坂加番になった。
文久2年(1862年)、幕末の海防政策として、津居山港に御台場を築き、11インチ砲や10貫砲を備えた。文久3年(1863年)の生野事件では幕府方として活躍し、平野国臣や横田友次郎らを逮捕するという功績を挙げている。
明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により藩知事となる。明治3年(1870年)、藩校の稽古堂を女学校に改めて、藩士子女の教育化に務めた。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により県知事となる。11月には県知事を廃されて、東京へ移った。明治17年(1884年)、華族令によって子爵となる。明治18年(1885年)に正五位に叙され、その後も従三位、勲四等に叙され、貴族院議員となった。
明治38年(1905年)12月27日、東京本所邸にて死去。享年77。
俳人としても優れていたと言われている。
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