仁川上陸作戦
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仁川上陸作戦 | |
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![]() 揚陸作業を行うアメリカ軍のLST |
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戦争: 朝鮮戦争 | |
年月日: 1950年9月15日 | |
場所: 仁川広域市 | |
結果: 国連軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
北朝鮮軍 | 国連軍 |
指揮官 | |
? | ダグラス・マッカーサー元帥 |
戦力 | |
? | 約7万人、艦艇260隻 |
損害 | |
約14,000 死傷 約7,000 捕虜 |
566 戦死 2,713 負傷 |
仁川上陸作戦(インチョンじょうりくさくせん、じんせんじょうりくさくせん)とは、朝鮮戦争中の1950年9月15日に国連軍が、ソウル西方約20km付近のインチョン(仁川)へ上陸し、ソウルを奪還した一連の戦闘の事である。マッカーサー元帥個人により発案された投機性の高い大規模な作戦を、元帥個人の信念によって実行に移し、結果戦況を一変させた点で特筆される。
目次 |
[編集] 概説
1950年6月25日の開戦からの北朝鮮軍の侵攻により国連軍は後退を続け、7月31日には西南部戦線の放棄を決定、朝鮮半島東南端の釜山周辺のいわゆる釜山橋頭堡(洛東江防衛戦線)に追いつめられていた。この状況を打破すべくマッカーサー元帥の発案した作戦が仁川上陸作戦である。この作戦は、ソウル近郊の仁川に強襲上陸することで北朝鮮軍の補給路を断ち、釜山を守っている第8軍を進撃させることで南北より挟撃する作戦である。
[編集] 上陸作戦立案
この困難が予想された上陸作戦はマッカーサー元帥により「クロマイト作戦」として発案されたが、アメリカ軍統合参謀本部と輸送支援を担当するアメリカ海軍から強い反対があった。その理由はいくつかあった。
- 仁川港は干満の差が平均6.9mと非常に大きく、干潮時には港の周辺はおおよそ3.2kmの干潟となってしまい、幅2km弱の水道以外に接近するルートがなくなる。
- マッカーサーが要求した兵力が海兵1個師団および在日米軍の予備兵力のほぼ全てとあまりにも大きかった。
- 先鋒には精鋭である第1海兵師団第5海兵連隊を釜山橋頭堡から引き抜いて充てることが必要であったが、そのことで釜山橋頭堡が弱体化して陥落してしまっては上陸作戦そのものの意味がなくなってしまう。
- 釜山から240km離れた仁川に上陸作戦を行って失敗した場合、上陸部隊は孤立してしまい救出困難であるし、南北に呼応した作戦としては距離が離れすぎている。
- 仁川港は、7万の兵員と装備を揚陸するには能力不足である。
さらに作戦実行日は大潮で潮位がもっとも上がる9月15日、それも朝晩2回の満潮時刻の2時間に揚陸を行うことが絶対で、10月以降は玄界灘、黄海の季節風の影響から延期が困難だった。また、作戦意図が北朝鮮に察知された場合、これらの自然条件から作戦実行日だけでなく実行時間まで特定しやすく、防衛体制を準備した上で迎え撃たれることも考えられる賭博性の高い作戦であった。しかし、 最終的にはマッカーサー元帥が国連軍司令官として統合参謀本部の陸海軍首脳の説得を振り切る形で下令した。
[編集] 上陸作戦開始
上陸作戦開始2週間前、アメリカ海軍ユージーン・クラーク大尉がひそかに仁川沖合にある霊興島(ヨンフンド)に上陸。島民の協力の下、昼は身を潜め、夜になると進入路の偵察、敵の防御を確認した。彼は仁川港へ進入する水路を示す八尾島(パルミド)灯台に潜入し、9月15日午前0時にこれを点灯して揚陸艦隊の第一陣を誘導した。この代償として北朝鮮兵士により霊興島民約50名がスパイ容疑で処刑された。
仁川港への上陸作戦を行う前に、前哨戦として湾口に位置する月尾島(ウォルミド)の占領が必要であった。この日1度目の満潮時刻にあわせた午前6時30分、第1海兵師団第5海兵連隊第3大隊は仁川港の前に位置する月尾島北西岸(グリーン・ビーチ)に上陸。 北朝鮮軍は砲兵部隊を展開していたが2日間にわたる艦砲射撃と空爆で壊滅しており島は45分で確保された。
本番となる仁川港への上陸は、この日2度目の満潮にあわせた午後5時30分に開始された。第1海兵連隊は仁川市南地区の干潟(ブルー・ビーチ)へ上陸、第5海兵連隊は高い岸壁がある仁川市北西部(レッド・ビーチ)へ上陸した。上陸第三波まで反撃は行われず、日没と共に北朝鮮軍守備隊は撤退した。この成功によって、残りの第10軍団と第7歩兵師団が機甲・砲兵部隊とともに敵の抵抗をほとんど受けずに上陸に成功した。第5海兵連隊第2大隊は深夜にはソウル~仁川を結ぶ街道まで進出した。
[編集] 上陸後
上陸二日目、第5海兵連隊は金浦飛行場へ、第1海兵連隊はソウル~仁川の街道の制圧を開始したが、依然北朝鮮軍の反撃は散発的であった。第1海兵連隊の8輌のM26重戦車が6輌のT-34-85戦車に遭遇したものの、短時間の戦闘でT-34は撃破された。この日、上陸作戦に呼応して釜山の第8軍も「スレッジハンマー作戦」を開始した。
上陸三日目の9月17日には第5海兵連隊が金浦飛行場を奪還した。
さらに、第8軍との合流のため第7歩兵師団は南へ進撃した。金浦飛行場からソウルまでは約13kmであるが、この間の北朝鮮軍の抵抗は激しかったものの、10日を要して最後の北朝鮮兵を排除した。
9月29日にはソウルの奪還はほぼ完了し、李承晩ら大韓民国の首脳もソウルに帰還した。
釜山攻撃に兵力を集中していた北朝鮮軍は後背の占領地に兵力をほとんど配置しておらず、一連の戦闘で策源地となる北朝鮮本土から遮断されることとなった。
補給部隊が貧弱であった北朝鮮軍は本国から300km以上離れた釜山周辺での戦闘で大きく消耗していた。兵力の3分の2が実際は韓国内で強制徴募した新兵で、抗命への即時射殺命令で部隊が維持されている状態だった。北朝鮮軍の補給路は朝鮮半島の道路網上、一度ソウルを通過する形をとっており、ソウル失陥で補給路を大きく断たれることとなった。第8軍と第7歩兵師団は、ソウルと釜山を連絡する京釜本道を南北から合流することに成功し、北朝鮮軍は朝鮮半島南西部に包囲され壊滅した。9月はじめに38度線以南に配置されていた北朝鮮軍兵士9万8千人のうち、捕虜となったものが12,777人、ゲリラとなったものが1万〜2万人、強制徴募から逃亡したものが約4万人強で、本国に帰還したのは約2万5千人と推定されている。
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