伊豆山神社
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伊豆山神社(いずさんじんじゃ)は、静岡県熱海市伊豆山上野地、JR熱海駅の北東約1.5kmにある神社。現在の祭神は伊豆山神(火牟須比命(ほのむすひのみこと)、伊邪那伎命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと))。全国各地に点在する伊豆山神社や伊豆神社(いずじんじゃ)、走湯神社(そうとうじんじゃ、はしりゆじんじゃ)などの起源となった事実上の総本社格である。
伊豆山神社 | |
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本殿 |
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所在地 | 静岡県熱海市伊豆山上野地 |
主祭神 | 火牟須比命 伊邪那伎命 伊邪那美命 |
社格等 | 国幣小社、別表神社 |
創建 | 考昭天皇御代 |
例祭 | 4月14日、4月15日 4月16日 |
目次 |
[編集] 歴史
創建時期は定かではないが、社伝によれば孝昭天皇の御代(紀元前5世紀~紀元前4世紀)と言われる。古くは以下のような名で呼ばれていた。
- 伊豆大権現(いずだいごんげん)
- 伊豆御宮(いずおんみや)
- 伊豆山(いずさん)
- 走湯大権現(そうとうだいごんげん、麓の海岸沿いに点在した温泉および間歇泉に由来し、推古天皇3年(594年)に朝廷から贈られた名であるとされる)
- 走湯山(そうとうさん)
- 火牟須比命神社(ほのむすひじんじゃ)
当初は日金山(ひがねさん、久良地山とも呼ばれる、静岡県熱海市、現在の東光寺(とうこうじ)所在地で熱海峠のほど近くの山上)にあった。その後の変遷については諸説があるが、本宮山(ほんぐうさん、静岡県熱海市伊豆山、現在の本宮神社所在地)を経て、承和3年(836年)に甲斐国の賢安なる僧が現在地へ遷座させたとの説が有力である。
明治維新の際の神仏分離令により寺を分離して伊豆山神社と称するまでは、天台宗や真言宗との関わりが深い典型的な神仏習合であり、現在地へ遷座して以降は主に、高野山真言宗である般若院(はんにゃいん、現在は同じ伊豆山地区の別の場所にある)の別当寺と伊豆大権現とが等しく祀られていた。しかし、
- 関係勢力の主導権争いなどによって度々祭神や由緒が改竄されたとみられること
- 地区全体が有史以来数度にわたって沈下し、山麓の摂社や末社、門前町の一部などは海底遺跡化していること
- 神仏分離の際の混乱や数度にわたる火災などで史料が逸失していること
などから山の歴史の全貌は明らかとは言いがたく、今後の調査および研究が待たれる。
修験道の始祖とされる役小角は伊豆大島へ配流された折りに当社に通って修行した、とか、空海(弘法大師)が訪れて修行した、といった伝承もあるほど、多くの仏教徒や修験者が修行を積んだ霊場であった。後白河法皇勅撰の「粱塵秘抄」には「四方の霊験者は伊豆の走湯、信濃の戸穏、駿河の富士山、伯耆の大山」と記されている。
一方で仁徳天皇が勅願所としたとされることから歴代皇族の崇敬も篤く、清寧・敏達・推古・孝徳・後奈良の六天皇の勅願所となったと社伝に謳われており、特に後奈良天皇は自筆の般若心経一巻(重要文化財)を奉納している。
源頼朝は平治の乱の後伊豆国に配流されたとき、当社に源氏再興を祈願した。この間有力豪族の伊東祐親に追われて当社に身を寄せたり、小豪族の娘であった北条政子との逢瀬の場にするなど深い関わりを持ち、後に鎌倉幕府を開くとここを「関八州鎮護」と称えて多くの社領を寄進した。南北朝時代の「寺領知行地注文」によれば、遠くは越州に至るまで数多くの知行地を所有していたとされる。
江戸時代に入ると山麓の阿多湊(または阿多美の郷)が湯治場として名高くなり、徳川家康をはじめ多くの大名や文化人たちが湯治がてら参詣に訪れた。徳川幕府からは加増も併せて三百石の朱印領が寄進されている。
神仏分離後の大正3年(1914年)、皇太子であった昭和天皇が当社に参拝、本殿脇に黒松一株を御手植され、昭和3年の昭和天皇御大典の際に国幣小社に列した。第二次世界大戦後に社格制度が廃止されて以降は別表神社とされ、宗教法人化された。
[編集] 文化財
- 重要文化財
- 木造男神立像
- 剣 無銘
- 紺紙金泥般若心経(後奈良天皇宸翰)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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