伊達宗高
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊達宗高(だてむねたか、慶長12年(1607年) - 寛永3年(1626年))は江戸時代の武将。柴田郡村田要害館主。伊達政宗の七男。母は柴田宗義の娘・阿山方。官位は諸大夫、従五位下、右衛門大尉。幼名は長松丸。
7歳で村田要害館主となり柴田・刈田3万石を領した。元和9年(1623年)に噴火した刈田岳を鎮めようと天に命願して人々を救ったとされ、村田(現:宮城県柴田郡村田町)では伝説の名君として名を残している。官位を受領後、疱瘡にかかり京都二条要法寺にて客死。その時、10名の家臣が殉死した。
墓所は村田町の龍島院。村田町では現在でも命日に「宗高公まつり花火大会」が開催されている。