住友家
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住友家(すみともけ)は住友財閥の創業者一族。
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[編集] 住友家の起源-始祖・家祖・業祖
住友家の先祖は越前国丸岡の武家で、桓武平氏の流れを汲むとされる。桓武天皇の曾孫・高望王の二十二代目に備中守忠重が現れ、「住友姓」を称し、室町将軍に仕えたとされている。いわば、この武家である住友忠重が「始祖」ということになる。天正年間に生まれた住友政友は、次男ということもあって出家し、涅槃宗僧侶「文殊院空禅」となった。しかし、寛永年間に涅槃宗が天台宗に吸収されたのを機に還俗し、京都で書物と薬種を商った「富士屋」を開いた。
政友は商売上の心得を『文殊院旨意書』にまとめたが、これは現在に至るまで住友グループ各社の社是の原型となっている。
その頃、同じく京都で銅精錬を営む「泉屋」という商家があった。弱冠19歳で泉屋を開いた蘇我理右衛門(号・壽濟)は進取の気性に富み、ヨーロッパ人からの伝聞をもとに、南蛮吹きと呼ばれる銅精錬法を開発した。当時、銅精錬技術が未熟だった日本において、良質の粗銅を供給する泉屋は大いに栄えた。住友では理右衛門を業祖と呼んでいる
ところで、理右衛門は涅槃宗の信徒であり、空禅(政友)の檀家であった。空禅が還俗して富士屋を開く際、理右衛門は物心両面で政友を助けた。のち、理右衛門は政友の姉と結婚し、彼の長男も政友の婿養子となり住友友以(とももち)を名乗った。
寛永年間、理右衛門・友以親子は大坂で南蛮吹きを広め、これにより商工家・住友家の地盤を固めた。
元禄年間になると別子銅山の経営に着手。これが世界最大級の産銅量を誇る鉱山に成長し、重要な輸出品として日本を支えることとなると共に約280年にもわたって住友の重要な事業の柱となった。
明治に入ってからは文化事業にも関わり、15代目吉左衛門友純(ともいと)は大阪府立中之島図書館の建物を寄贈。その子16代目吉左衛門友成はアララギ派の歌人でもあり、斉藤茂吉、川田順(住友本社の重役でもあった)とも交流があった。
なお、住友家当主が「吉左衛門」を名乗るようになったのは、3代当主友信(友以の子)からである。
[編集] 住友財閥における住友家
住友財閥における住友家、特に15代目吉左衛門友純以降のそれは「君臨すれども統治せず」の立場をとった。財閥本社社長たる歴代吉左衛門の仕事は、究極的には財閥の事実上の最高権力者である住友本社(住友合資会社)総理事の信認に尽きるといってよく、個々の事業に口を差し挟む事はなかった。また、16代目吉左衛門友成の兄弟である寛一・元夫は住友本社の株主ではあったが、本社はもちろん傘下事業の役員にも名を連ねることはなかった。この点では三井家や岩崎家と対照的と言える。
この傾向は実は江戸時代から存在していたが(当主が幼少、病弱その他の理由などで、経営に関わらなかったケースが多く、実権はいわゆる「大番頭」が握っていた)。一方で会社法が整備され、他方で旧公家宮武家出身で実業家としての経験がない友純が当主となった明治に入ってからは、一層顕著になった。
但し、三井財閥のように、財閥家族と財閥本社役員及び傘下企業の間に一種の緊張関係があった訳ではなかった。吉左衛門を「家長様」と呼んでいた事に象徴されるように、上は総理事から下は一般社員までに至る吉左衛門に対する敬愛の念はすごぶる高く、歴代吉左衛門もまた、一方では文化事業を通じて住友の名を高め、他方では家長・財閥本社社長として企業モラルの引き締めの任に当たっていた。
[編集] 住友家の親族・姻戚関係
ここでは、明治に入ってからの住友家とその親族・姻戚関係について述べる。
明治に入って、住友事業は12代目吉左衛門友親と、その子13代目吉左衛門友忠の下で営まれていたが、1890年に友親、友忠が相次いで亡くなり、男系相続者が途絶してしまう非運に見舞われる。この時、住友家総理人広瀬宰平と大阪本店支配人伊庭貞剛は、友親の妻・登久に14代目吉左衛門を襲名させる一方、友忠の妹・満寿の婿養子として清華家の徳大寺隆麿を迎え、住友家の命脈をつないだ。これが15代目吉左衛門友純で、西園寺公望の実弟である。実はこの清華家の徳大寺家は江戸時代に東山天皇の皇胤が養子に入っており、15代目吉左衛門友純をもって住友男爵家は、男系でたどれば近世の天皇の皇胤系に入れ替わった。
(男系系図:東山天皇━閑院宮直仁親王━鷹司輔平━鷹司政煕━鷹司政通━徳大寺公純━住友友純)
住友友親の娘・楢光は、三井十一家の一つ「伊皿子家」の出で、のちに「永坂町家」の8代目当主となる三井高泰(守之助)に嫁いでいる。
住友友純は、満寿夫人との間に4男1女(3男は早世)をもうけたが、長男の寛一は廃嫡となり、次男の厚が16代目吉左衛門友成として住友家を継いだ。
住友友成は元東宮職御用掛の公爵西園寺八郎(西園寺公望の女婿・旧長門国山口藩(長州藩)藩主・公爵毛利元徳の8男)の次女・春子と結婚した。友成・春子夫妻は男子に恵まれなかったものの2女をもうけ、そのうち1人は昭和電工元社長・安西正夫の次男・直之に嫁いだ。直之の兄、すなわち正夫の長男・孝之(元昭和エンジニアリング社長)は元日清製粉(現日清製粉グループ本社)社長・正田英三郎の次女・恵美子と結婚した。恵美子の姉、すなわち正田の長女が美智子皇后であるので住友家は安西家・正田家を通じて皇室と姻戚関係でつながっている。なお八郎の三男・西園寺不二男は鮎川義介の長女を娶り、自らも日産コンツェルン傘下の日産興業社長に就いている。元参議院議員で日中友好に努めた西園寺公一は八郎の長男であり、春子や不二男の長兄にあたる。
これに対し兄・寛一はキミ夫人(皆川宗光の子)との間に4男2女、弟の元夫は寿枝子夫人(伯爵酒井忠克の子)との間に2男2女をもうけた。なお、寿枝子の姉・小枝子は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫に嫁ぎ、その娘・由利子(寿枝子の姪にあたる)は古生物学者で理学博士の鎮西清高(京都大学名誉教授)に嫁いでいる。また、鎮西と同じく古生物学者で理学博士の岩崎泰頴(弥太郎の曾孫で熊本大学名誉教授)は由利子の兄であり、寿枝子の甥にあたる。
住友寛一の次男は、浅野財閥の浅野八郎(浅野総一郎の弟)の長女を妻に迎えている。