毛利元徳
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毛利 元徳(もうり もとのり、天保10年9月22日(1839年10月28日) - 明治29年(1896年)12月23日)は、長州藩の第15代(最後)藩主。父は徳山藩の第8代藩主・毛利広鎮(元徳は十男)。母は三宅才助の娘・多喜勢。正室は毛利元運の娘・安子(銀姫)。側室に山中氏(花子)。官位は従一位勲一等公爵。
1839年9月22日生まれ。1852年2月、先代藩主の毛利敬親に嗣子がないため、その養子となる。はじめは広封(ひろあつ)と名乗るが、数日後将軍に拝謁を許され、徳川家定から偏諱を受けて定広(さだひろ)と名乗った。禁門の変後、幕府より「定」の字を召し上げられ、広封に戻す。明治維新後に元徳と改名。1869年6月4日、敬親の隠居で後を継ぎ、従三位・参議となる。1871年、廃藩置県で免官されて東京へ移り、第15国立銀行頭取、公爵、貴族院議員となった。
1896年12月23日、58歳で死去。死後、国葬となった。号は忠愛公。墓所:山口市上宇野令の香山墓地。または芳宜園神社。
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