佐倉惣五郎
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佐倉 惣五郎、宗吾(さくら そうごろう、そうご、生年不詳 - 承応2年(1653年)?)は江戸前期の百姓一揆の指導者。本名は木内惣五郎。
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[編集] 生涯
下総国印旛郡公津村の名主総代で、その出身については諸説があり確証はない。一揆や直訴についての根本資料が全く存在せず、宗吾伝説が形成される過程で、後人の手によって作られたものがほとんどといってよい。それによると、宗吾は佐倉藩の重税に耐えかねた農民を代表して、藩の役人や江戸の役所に訴えたが取り上げられず、老中に駕籠訴をしても果たさず、やむなく将軍に直訴して租税は軽減されたが、宗吾夫妻は磔刑、男子3名は死罪に処されたという。しかし一説には、惣五郎の刑死後に年貢は多くなり、公津村だけでも以前より145石もよけいに徴収されたので、村民は一時かえって惣五郎を恨んだとも。刑場もはっきりせず、公津村の江原臺(伊原臺)、本佐倉穢多町、大佐倉村、公津村埜方と諸説まちまちである。
史料を欠いていること、その物語の構成が後年の安房万石騒動を借りていることなどから、宗吾の存在を否定する説さえ出たが、当時の名寄帳などから宗吾こと惣五郎の実在が確かめられた。直訴があったかどうか、その年代についても種々の説があるが、その動機については年貢の軽減の他に、千葉家の再興を訴えたとの説もある。これによると木内家は千葉重胤の家臣で、千葉氏が小田原落城で後北条氏とともに滅亡し、家臣が四散したのを宗吾の祖先が率いて公津村辺に土着し、千葉家再興を期していたという。
宗吾伝説は百姓一揆の高揚期の中でも様々の要素を添加されながら成長し、明治以後も民権論の高まりの中で再評価され、脚光を浴びた。宗吾の処刑の地である千葉県成田市には、現在、宗吾霊堂(鳴鐘山東勝寺)が建っている。
[編集] 事実と伝説
- 『地蔵堂通夜物語』(元禄17年・1704年)
- 『惣五郎摘趣物語』(安永2年・1773年)。これによると、佐倉家中に早くから不平党として目をつけられていた惣五郎は、領主に収める前に百姓からあらかじめ取り立てていた214俵の年貢を速やかに上納せよという難題を押しつけられ、そのことが、藩役人の罠にかかるくらいなら自分から進んで堀田家の悪政を天下に直訴しようと惣五郎に決意させた原因である。
- 堀田氏儒臣・菱川右門の記述によると、堀田正信が承応3年(1654年)11月に惣五郎の霊を祭るために将門山の入口に社を建てたところが、土地の人があつく崇敬して“口之明神”と云った。この社殿は宝暦2年(1752年)に再建され、改めて“口明神宗吾道閑宮”と名付けられる。堀田正信は惣五郎死後に発狂し、祟りがあったと噂された人物である。
- 佐倉領主が浅草(旧・芝崎町)の日輪寺の過去帳に惣五郎の名を記して菩提を弔い、同じく浅草(旧・森下町)の金蔵寺には位牌がある。その位牌の裏書きに“凉風道閑居士俗名宗吾、下総印旛郡佐倉居民なり。口明神と尊称して、社殿を建つ、享和三年癸亥八月三日(1803年9月18日)百五十回なり。因て供養の為め大施餓鬼を修し、木主を追造し、金蔵寺堂中に安置す”とある。
- 時代世話物で七幕の歌舞伎脚本が三代目瀬川如皐によって書かれた。名題は『東山桜荘子』。嘉永4年(1851年)8月、江戸中村座において四世・市川小団次等が初演した。東山時代を背景に、柳亭種彦の『田舎源氏』を絡ませ、宗吾を浅倉当吾(とうご)、堀田上野介正信を織越政知(おりこし まさとも)の名で劇化した作だが、文久元年(1861年)河竹黙阿弥が『桜荘子後日文談(ごにちのぶんだん)』の名題で『田舎源氏』の筋を抜いて補訂、その後、役名は実名通りに改まり、明治期以後は『佐倉義民伝』の名題にほぼ定着して今日に至っている。『佐倉義民伝』を基にした演劇は歌舞伎以外でも数多く上演されており、映画化も無声映画時代を中心に20回以上行なわれていると言われる。
[編集] 参考資料
- 山路愛山『偉人論』中の「木内惣五郎の傳」(大正3年・1914年)
- 児玉幸多『佐倉惣五郎』(昭和33年・1958年)
- 青柳嘉忠『稿本佐倉惣五郎』(昭和43年・1968年)
- 花田清輝『佐倉名君伝』(昭和35年(1960年)7月22日)
- NHKドラマとして放映。従来の佐倉宗五物では領民に重役を強いた悪役の堀田上野介が、実は領民のためを思って新田を開発していたという筋で描かれている。