佐竹義直
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佐竹義直(さたけ よしなお、慶長17年(1612年) - 明暦2年(1656年)閏4月8日)は江戸時代の人物。常陸国の戦国大名佐竹義重の五男。生母は細谷氏。別名は義継。幼名は申若丸。通称は彦次郎。
慶長17年、佐竹義重の五男として父の死後に生まれた。佐竹4家の1つ、北家の佐竹義廉の養子となる。元和7年(1621年)7月、長兄で出羽国久保田藩主の佐竹義宣の養子になる。義宣に嫡子がいなかったためである。なお、ほかの兄で正室の子だった蘆名義広、岩城貞隆、多賀谷宣家(岩城宣隆)は他家に養子に出ていた。同年11月14日、将軍徳川秀忠に御目見する。
寛永3年(1626年)3月21日、廃嫡された。「佐竹家譜」によれば、江戸城における猿楽の見物中に居眠りをしてしまい、養父義宣の怒りをかったためという。3月23日、江戸を出発し、4月2日、秋田に到着した。ほどなく城下の一乗院に入り、出家した。寛永5年8月3日、秋田を離れ、高野山に上る許可を得る。その後、京都・仁和寺の塔中尊寿院を再興し、住職となる。「源姓佐竹氏総系図」によれば、明暦2年(1656年)閏4月8日に死去、47歳(慶長15年誕生としている)。正室、子女ともにいない。
なお、佐竹東家の当主佐竹義直と混同しないように、後世、便宜的に「義継」と名付けたという説もある。幕府の公的な系譜集「寛政重修諸家譜」にも「義直」とある。紛らわしい事例としては、出羽国亀田藩2代藩主・岩城重隆の正室の父親をあげられる。岩城重隆の正室は佐竹義直の娘であるものの、佐竹東家の義直(源六郎)であり、本項目の佐竹宗家の義直(彦次郎)とは別人である。