相馬義胤 (十六代当主)
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相馬 義胤(そうま よしたね、天文17年(1548年) - 寛永12年11月16日(1635年12月25日))は、戦国時代、安土桃山時代の武将、大名。陸奥相馬氏第十六代当主。孫次郎、長門守。従五位下。
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[編集] 人物
父は相馬盛胤(第15代当主)。母は盛胤の正室の懸田義宗娘。 弟に中村城城代の相馬隆胤、相馬郷胤がいる。相馬利胤(第17代当主)の父。
正室は、永禄2年1559年、伊達稙宗の末娘・越河御前と結婚するも、当時から仲が悪かったようだ。義胤12歳、越河御前14歳。越河御前とは永禄6年(1563年)頃に離縁した。越河御前は離縁してから1、2年後に死去したらしい。
天正4年(1576年)の春に長江月鑑斎の兄(渡部氏)の娘(当時12歳)を正室として迎えた。子は相馬利胤(長男)、相馬及胤(次男)、相馬久胤(三男)、娘(岩城貞隆正室)
[編集] 略歴
[編集] 伊達氏との争い
永禄6年1563年、16歳で初陣。中村城代草野直清の反乱を鎮圧するなど武功をあげる。 天正6年1578年に父の隠居により家督を継承。
伊達氏とは天文の乱以来の仇敵であり、義胤の在世前後においても、永禄7年(1564年)に伊達領伊具郡を侵攻するなど、ずっと戦い続けて来た。特に相馬氏が伊達氏から奪取した丸森城、金山城を巡って激しく対立。家臣の黒木宗俊や佐藤為信が義胤から離反しているが、これも伊達氏の工作によるものとされる。
天正12年(1584年)5月、田村清顕・岩城常隆・佐竹義重らの仲介により、伊達輝宗・政宗父子と和議が成立した。和議の成立により、伊具郡丸森城をこの年に、金山城を翌年伊達に返還したとされる。天正13年(1585年)9月、義胤は三春訪問の途次、政宗と安達郡宮森の陣所で初対面を果たしている。同年10月8日、伊達輝宗が、安達郡二本松城主畠山義継に捕らえられて死去すると、同年同月14日には、政宗を援けて三春より出陣した。 ただし、同年11月17日の人取橋の戦いでは、伊達方との和議は破棄していなかったためということもあり佐竹・蘆名連合軍に加わっても約三百騎の小勢で、岩瀬軍と佐竹軍の間に本陣を構えて伊達軍と対峙していた(義胤の動向についてはほとんど記録がないところをみると積極的な動きはなかったと推測される)。天正14年(1586年)かねてより二本松勢が義胤を介して伊達方とを和議を結びたい旨を伝え、義胤は伊達実元を中心に政宗を説き伏させ、7月16日、二本松城から畠山国王丸・新城弾正らが会津に退いた。同年10月9日、三春城の田村清顕が死去すると田村家内で相馬方・伊達方に分れて争いがおこり、徐々に田村家中は伊達方に固まりつつあり、当主も伊達方の田村宗顕が就くなど相馬方は不利になっていった。義胤は天正16年(1588年)に田村清顕後室の依頼に応じ、三春城へ陣中見舞いへ出向こうとしたところ相馬勢の三春城乗っ取りと見た伊達方の田村家臣に銃撃され、多数の側近が討死。義胤自身も撃たれかけ、命からがら小高城へ逃げ帰り、伊達家との決別を決意したという。
義胤は豊臣政権により奥羽惣無事を命ぜられたが、義胤は政宗を相手に奮戦するが、蘆名氏の滅亡や伊達家の仙道7郡所有するなど次第に劣勢に立たされてゆき、天正18年(1590年)5月14日には弟の中村城城代隆胤が童生渕の戦いで討死するなど大敗し、相馬氏は滅亡の危機に瀕した。伊達家の保原伊勢から隠密の使者が来て降伏を勧められたが、義胤は討死を決意して「我と死生を同じくしようとする者は(相馬氏ら千葉一門の守護神である)妙見のご神前において神水を飲むべし。異儀を唱えるものは来るに及ばず。我は少しも恨みに思いはしない。」と言い、まさに最後の一戦を挑むところであったという。この決戦は秀吉の惣無事令を受けて回避されたが、この時一同が飲んだ御神水は、今も変わらず小高城跡・小高神社の裏にある。また、義胤は同年の小田原征伐で、豊臣秀吉の元に参陣して、行方・宇多・標葉の三郡4万8千石を安堵されている。
[編集] 豊臣政権における義胤
慶長元年(1596年)嫡男の虎王の元服に際しては石田三成から「三」の偏移を受けて「相馬三胤」と名付けた。また蘆名盛隆の娘(二女、江戸崎御前)を三胤の正室に迎えた(この姫は蘆名義広の養女となっていたが摺上原の戦いで義広が政宗に敗れたため、義広と共に佐竹領へ逃れていたものと考えられる。)
慶長3年(1598年)には居城を小高城から牛越城(南相馬市原町区牛越)に移す。
[編集] 関ヶ原の戦い前後における義胤
慶長5年(1600年)三胤の妹が十歳で岩城常隆の養子、貞隆(佐竹貞隆)に輿入れして、まもなく勃発した関ヶ原の戦いにおいて、義胤は当初中立の立場をとった。しかし、この佐竹氏との縁戚関係のことがあってか、勝利を収めた徳川家康によって、相馬氏は西軍に属した佐竹義宣の一門とみなされてしまうことになる。
このときに伊達政宗が北目城に戻るときにどうしても相馬領を通らなくてはならず、その旨を義胤に告げると、家臣は夜討ちを仕掛けるべしと押したが、水谷胤重は一人「『窮鳥懐に入れば此れを討たず』。今、政宗は少数で相馬領を通ろうとしている。これは勇者のすることではない。仮に敵を獲ったとしても上杉景勝強しと言えども、天下の情勢は徳川家康に適う者はいない。その属将の政宗を討ったら忽ち相馬家は家康によって滅ぼされるであろう。『遠く慮り無くんば則ち必ず後の憂いあり』今は政宗の周りを守って、後に他日両家が戦に相見えた時に雌雄を決するほうが最良と存じます。」と言い、義胤や他の家臣もこの意見に賛同して政宗を無事に伊達領へ帰したという。
政宗が帰った後に片倉景綱から御礼の使者が相馬盛胤のもとへ来て「今の風潮では相馬家は上杉、佐竹、岩城らと結んで三成と共謀しているようです。主君の政宗は徳川方へ付くと言っています。失礼ながら、相馬家と伊達家は親類同士であり、私も御為と思って粗略に扱うわけではありません。もしも相馬家が三成方に加担するのならお諌めてください。それは、今、天下に家康と比べれるほどの武将はいません。三成や景勝に誘われてもこれは家を滅ぼす元です。」と言ったので盛胤は「噂ではそのようですが、何も三成に加担したわけでもなく、景勝に組したわけでもない。相馬家は前年よりの戦で兵士を失い、今はその子供を養育しているところです。もしも家康公より御下知があっても30人でも50人でも参陣するつもりですが、政宗公が家康公に味方されるならば伊達境の番士も置きませんし往来も自由にされても結構です。ただ、伊達家に異心があってもそのときはわからないがこのことは存じ置き下さい」と返事があり、景綱も「そのお気持ちならばお家長久は間違いないでしょう。特に義胤公へ一番にお諌めください。私からも相馬家のことは政宗にも伝えましょう」と言ったという。
慶長6年(1601年)1月、水谷胤重の進言によって伊達勢とともに上杉景勝の所領、月夜畑を夜襲する。なお、この年、義胤の親族に訃報が続いている(3月、弟・郷胤死去。5月、三胤室・江戸崎御前死去。10月、父・盛胤死去。)
慶長7年(1602年)5月、家康によって相馬三郡を改易される。秋田に転封された貞隆の兄・佐竹義宣に秋田の地1万石を与えるので移るように誘われたが、これを丁重に断り、所領没収撤回の訴訟のため三胤を江戸へ向かわせた。このとき、水谷胤重が月夜畑の戦いで死んだ相馬の戦死者の名簿を帳面にして記しておいたため、訴訟にも有利に使われ、徳川家臣本多正信の説得もあり、同年10月、所領安堵となったという。 この折、義胤の旧敵である伊達政宗が相馬領通過の恩義もあってのとりなしもあったという。『藩翰譜』(ただし、著者の新井白石は事件当時まだ生まれておらず、逆に政宗は恩賞で相馬の領地を望んでいたという説もあり事実は不明。)
[編集] 晩年の義胤
以後、義胤は家督を嫡男の三胤改め利胤に譲って隠居する。その利胤は1625年、父に先立って病死したが、自身は孫の虎之助の後見役となり、1635年まで生きた。
あるとき、義胤は八十余歳の白髪で江戸に登城して場内に入った。丁度、下馬するときに政宗は退出してきたが、政宗は輿にはすぐに乗らずに暫く立って義胤を見送った。義胤はこれを見て若い頃の政宗を思い出し、孫の虎之助に向かって「若い者は朝夕交わる中でも、気を抜かずに用心すべきである。」と忠告したという。
同慶寺の住職の話によれば、その遺体は遺言により、立ったまま伊達氏の勢力圏である北向きに埋葬されたという。