公会議
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公会議(こうかいぎ、Concilium Oecumenicum)とは、キリスト教において世界の教会から司教ならびに枢機卿団、場合によっては諸修道会の代表や信徒の代表者を集め、教義の決定や教会法の制定などのために議論を行う教会の最高会議。それぞれの公会議は、開催地の名前を伴って~公会議と呼ばれ、同地域で複数回の公会議が行われた場合はそれぞれ第~を冠する。
別称として、世界公会議、エキュメニカル会議、普遍的公会議などがあり、東方正教会に属する日本ハリストス正教会では全地公会と呼ばれる。
公会議(公会)に対して、地方ごとに行われる教会会議も存在する。とくに西ヨーロッパにおいて、教会会議はしばしば公会議(concilium, council)と称されることがあるが(例:1095年のクレルモン教会会議を「クレルモン公会議」と称するなど)、このふたつの性格は混同されるべきではない。
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[編集] 歴史的経緯
公会議は新約聖書の使徒行伝にみられるエルサレム会議がそのルーツであるといえる。初代教会では信仰についての議論が紛糾すると、各地域において代表者が会議を開き、決議を行っていた。だが、アレイオス派の問題が生じるにいたって、すべての地域の代表による会議の開催が必要となった。そうして開かれたのが最初の公会議である325年の第1ニカイア公会議であった。以後、多くの公会議が行われているが、場合によっては、後の公会議や教皇の勅令によって、公会議の無効、または議決の部分的修正がされる場合がある。(たとえば449年のエフェソスにおける会議は「公会議」を名乗りつつも、完全に政治的計算から行われたため、エフェソス強盗会議(陰謀公会)と呼ばれ、公会議の中には数えられていない)。
西方教会においては、1378年の教会大分裂(シスマ)によってローマとアヴィニョンに教皇が並立し、教皇権の混乱と弱体化を引き起こした。この事態は教皇首位説のもとでは解決困難であり、公会議にこそ教会の最高決定能力があるとする公会議主義の主張が台頭した。1414年のコンスタンツ公会議では公会議主義者の主導によって公会議主義が決議されたが、教皇至上主義派の巻き返しもあって後のバーゼル公会議では教皇首位説が決議されることになった。
古代から中世まで、この種の宗教会議はしばしば東ローマ帝国の皇帝や時の権力者が召集し、また議長を務めることすらあり、世俗権力の強力な影響下で議論されることが多かった。そのため、ローマ使徒座を首位とする西方教会(カトリック教会)では、ローマ教皇(教皇)自ら出席せずにその特使(枢機卿)を派遣して、後に教皇が決議を承認するという形式が慣例となっていた。しかし、現在のカトリック教会の定める教会法では、教皇による召集が義務となっている。
[編集] 各教派における解釈
公会議に関しては、キリスト教の各教派によってその重要性の解釈は異なっている。
カトリック教会では、325年の第1ニカイア公会議から1962-65年の第2バチカン公会議までの21回の公会議を認めている。
プロテスタント諸教会は(宗教改革期以降の公会議はもちろんのこと)すべての公会議を認めているわけではないが、特に初期の数回の公会議の重要性は認識されている。
東方正教会は基本的には787年の第2ニカイア公会議(第7回公会議)までの7回の公会議のみを認めており、それ以降は西方教会の地方教会会議であると認識している(決議の有効性は認めず)。ただし、ローマカトリックでいう第17回公会議(特にフィレンツェにおける会期)には議論がある。正教会の代表者も参加し、東西分裂以後、一致を計った普遍的な公会議たるべく開催され、一時は合意に達したものの、正教会が承認できる内容ではなかったため最終的に合意は成立せず、会議後間もなく東ローマ帝国が滅亡してしまったために交渉自体も消滅。このため正教会側では第8全地公会(第8回目の普遍的公会議)とは認識されていない。
なお、東方正教会では、自律した諸地方教会単位までの教会会議を便宜的に「地方公会」と呼ぶことがあり、これは使徒的な諸自律教会全体を包括する公会議を「全地公会」と区別される。現在でもローマ、コンスタンチノープル、ロシアなどの諸教会単位で行われる教会会議は地方公会であり、第1ニケアから第4コンスタンチノープル会議まで7回の会議のみが全地公会としての要件を満たした普遍的公会議(全地公会)であるとしている。
[編集] 公会議一覧
- 第1回 325年 第1ニカイア公会議 - アレイオス派排斥およびニカイア信条採択、復活祭(復活大祭)の日付を確定。
- 第2回 381年 第1コンスタンティノポリス公会議 - 三位一体論の定義、ニカイア・コンスタンティノポリス信条採択。
- 第3回 431年 エフェソス公会議 - ニカイア信条の正統性を確認。ネストリオス派の排斥とテオトコス論争の決着。
- 第4回 451年 カルケドン公会議 - エウテュケスらの唱えた単性論(449年エフェソス強盗会議において認められたもの)の排斥。
- 第5回 553年 第2コンスタンティノポリス公会議 - 三章問題の討議、カルケドン公会議の決定の再確認。
- 第6回 680年-681年 第3コンスタンティノポリス公会議 - 単意論の排斥。ホノリウス問題を討議。
- 第7回 787年 第2ニカイア公会議 - 聖像破壊論者の排斥。
(以上の7回は東方正教会でも全地公会と認められている。)
- 第8回 869年-870年 第4コンスタンティノポリス公会議 - コンスタンティノポリス総主教フォティオスを追放 。
(東方正教会ではローマ教会の称する「第8回」以後は(全地公会としての要件を欠いた)ローマ教会の地方的会議であると捉えている。また、東方正教会ではこの「第8回」は後に追放されたフォティオスが復権するなどして一旦棄却されたという歴史的事実があるので(全地にせよ地方にせよ)公会議として扱うこと自体を不当としている。)
- 第9回 1123年 第1ラテラン公会議 - ヴォルムス協約を承認、初めて西ヨーロッパで開催。
- 第10回 1139年 第2ラテラン公会議 - 教会改革を実施し、対立教皇によって引きおこされた分裂を収拾。
- 第11回 1179年 第3ラテラン公会議 - コンクラーヴェのシステム改正(2/3の多数決制)。以降、参加司教の名簿が作成されるようになる。
- 第12回 1215年 第4ラテラン公会議 -ワルドー派・カタリ派を排斥。聖体の変化を示す「全実体変化」(Transsubstantiatio)を定義。
- 第13回 1245年 第1リヨン公会議 - 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を教会の敵対者として非難。
- 第14回 1274年 第2リヨン公会議 - コンクラーヴェの制定。ギリシャ教会との合同を模索。
- 第15回 1311年-1312年 ヴィエンヌ公会議 - テンプル騎士団の解散を命令。
- 第16回 1414年-1418年 コンスタンツ公会議 - 対立教皇を廃し、教会大分裂(シスマ)終結。ウィクリフ、フスを排斥。公会議主義的教令を採択。
- 第17回 1431年-1445年 バーゼル公会議、フェラーラ・フィレンツェ公会議 (1438年にフェラーラ、1439年にフィレンツェと移動したため、バーゼル・フェラーラ・フィレンツェ公会議などともいわれる。)- 教皇首位説(コンスタンツ公会議の修正)、フィリオクェ問題の決議。カトリック(西方教会)と東方正教会の合同を目指した。
(会議には東方正教会も参加しているが、承認できる内容ではないため全地公会と認めていない。)
- 第18回 1512年-1517年 第5ラテラン公会議 - 教会改革を志向したが果たせず、宗教改革運動を招くことに。
- 第19回 1545年-1563年 トリエント公会議 - 教義や教会の方向性が討議され、カトリック教会のアイデンティティーを再確認。刷新された典礼は以後400年変わらず。
- 第20回 1869年-1870年 第1バチカン公会議 - 近代思想を否定し、教皇不可謬を宣言。
- 第21回 1962年-1965年 第2バチカン公会議 - カトリック教会のアジョルナメント(今日化)を目指し、典礼・信仰の表現を刷新。カトリック教会の他宗教・他文化との対話(エキュメニズム)を推進。