北条義政
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北条 義政(ほうじょう よしまさ、1242年(仁治3年) - 1282年1月8日(弘安4年11月27日))は鎌倉時代中期の北条氏の一族。塩田氏流の祖。父は北条氏極楽寺流の北条重時。官位は従五位下。左近将監。駿河守。武蔵守。通称は陸奥四郎時量。子には時治、国時、胤時らがいる。
[編集] 略歴
初めは鎌倉幕府第6代将軍宗尊親王に仕え、1265年に引付衆、1267年に評定衆、1269年に二番引付頭に昇進し、幕府要職を歴任した後、1273年に叔父北条政村が死去した為、政村に代わり連署に任じられた。1274年からの元寇においては執権北条時宗を補佐する。
1275年、元のフビライから送られた使者を時宗が処刑しようとした時には和睦の道もあるとしてこれに反対している。『関東評定伝』に拠れば義政は病の為に出家を望んでいたと言われ、花押の有無からも、義政は文永の役以降に病の為に連署としての政務を十分に務めてはおらず、建治2年前後には見られなくなる。『建治三年記』に拠れば、1277年4月に突如連署を辞し、出家。翌5月信濃国塩田荘に遁世した。そして、同地で41歳の生涯を閉じた。塩田には、義政創建と伝えられる安楽寺八角三重塔が残されている。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1259年(正元元)4月17日、従五位下に叙し、左近衛将監任官。
- 1265年(文永2)6月11日、幕府の引付衆と就る。
- 1267年(文永4)11月、評定衆に異動。
- 1269年(文永6)4、二番引付頭人を兼帯。
- 1270年(文永7)5月20日、駿河守に転任。
- 1273年(文永10)6月17日、連署と就る。 7月1日、武蔵守に転任。
- 1277年(建治3)4月4日、出家。道義と号す。 5月22日、逐電。
[編集] 人物
義政は教養人としても知られ、『新後撰和歌集』や『玉葉和歌集』、『続千載和歌集』などに多くの歌を残している。
義政の遁世について没年からも病気説は考えられているが、歴史学者の網野善彦は義政は安達泰盛室が同母姉妹である事を指摘し、泰盛と得宗家被官平頼綱との対立が義政の立場を微妙なものにしたであろうと推測。さらに、義政の遁世後には極楽寺流の義政にとって本家筋にあたる北条義宗は評定衆に加わっている事からも、本家筋に憚るところがあったとする説、時宗の慰留や、義政遁世後の幕府人事の手早さ等から、得宗家の政治的排除であるとも考えられている。